喫茶モントレゾールへようこそ -sample-


 美味しいコーヒーが飲みたい。
 誰にでもそんな瞬間があるだろう。
 コーヒーじゃなくてもいい。紅茶や緑茶、オレンジジュース……もちろん飲み物だけではない。ケーキ、白米、肉、魚……口に入れた瞬間に旨味が広がり、幸せになれるような一品を口にしたい、と。
そんな人々のため、世の中には様々な専門店が存在するのだ。

 東京都杉並区にあるA駅。その中央改札口を出ると、すぐ目の前には商店街の出入り口である大きなアーケードが目に飛び込んでくる。
 全長一km近くにもなるその商店街は昨今の寂れたものとは異なり、九割り方の店舗が営業している。最初に見えるパンチコ店から始まり、和菓子屋、パン屋、カフェ、魚屋、野菜屋、薬屋、スーパー……新旧様々な業種の店舗が軒を連ね、にぎやかな声を響かせている。
 その中を通り抜けると三車線の大きな幹線道路。向かいには住宅街が広がっている。
 建売住宅とは違い、青や赤といった色とりどりの屋根と様々な建築様式の家が、まるで迷路のように並んでいる。
次は右へ、次は左へ。
出口は、二分もしないうちに訪れた。
そこには、車一台がやっと通れる路地と、林が広がっているのだ。
十数分前まで歩いていた商店街の賑やかさとは打って変わって、そこは人の話し声すら聞こえない静かな空間。ヤマビワを始め様々な木々が植わっており、風が吹けば葉掠れの、そして鳥の鳴き声が心地よいBGMとなってその道を歩く人々の耳に届く。
 まるで都会のオアシスと言っても差し支えないその林を左手にして、歩くこと十秒。それはまるで林の入り口――門のようにして建てられていた。
 周囲の景観を壊さないためか、ログハウスに似た木造の平屋。瓦屋根は深い緑色で、壁には蔦が絡まっているため、周囲の木々に溶け込んでいる。
 初めて目にした人なら林の管理小屋かと思うだろう。
 だがその木造平屋の前には、縦に長い黒板型の看板が飾ってある。そこに、白いチョークで書かれた文字を見て、人々はやっとこの建物の正体を知るのだ。
「喫茶モントレゾールへようこそ」

 外観と同じく店内も木材を使った家具で統一されており、出入り口付近には観葉植物であるガジュマルやベンジャミナが飾られて落ち着いた雰囲気を醸し出している。天井に吊り下がったいくつかのランプは優しいオレンジ色で店内を照らすのも、その一助となっている。
店内に流れているジャズも、耳障りにならない程度のボリュームに抑えられていた。
 出入り口の向かいにあるダークブラウンのカウンターテーブルには、同色の丸椅子が三席。腕を曲げても隣とぶつからない、ほどよい距離感で設置されている。レジが左端に設置してあり、カウンター内で作業が済むような構造になっていた。
出入り口の左手には四人掛けのテーブル席がふたつ。右手は直角に折れ曲がっており、前後に同じテーブル席がまたふたつ。こちらももテーブルの色はカウンターと同じダークブラウン。椅子も同色のものだが、こちらは背もたれがある。座席部分は革張りになっており、深い緑色が店内との調和を保っていた。
 外観のとおりこのぢんまりとした店内には現在三人の客がおり、男性ふたりは左手奥のテーブル席に向かい合って座っていた。もうひとり、女性客は右手前のテーブル席でコーヒーを飲みながら、ノートパソコンを広げて何やら熱心にキーボードを打っている。
「いらっしゃいませ」
 子ども特有の甲高い、だが控えめな声が店を訪れた客の耳朶に届く。同時に、声の主がひょっこりと姿を現した。
「喫茶モントレゾールへようこそ!」
 看板に書かれた通りの文言をそのまま口にするのは、小柄な少女だった。頭頂部の高い位置でひとつに結んだ髪が、彼女の動きに合わせてゆらゆらと左右に動く。薄茶色の髪は光を受けて、淡く輝いていた。
 コットン生地の白いブラウスに身を包んだ少女は、綿麻生地の赤いスカートをひるがえしながらペコリと反動をつけてお辞儀をする。それからきっちり一秒後に顔を上げると、その顔には満面の笑みを浮かべていた。
 彼女がかけているエプロンの胸元には、小さなチューリップの形をしたバッチがつけられていた。真ん中は透明なフィルムになっており、間に入っている用紙には「田島鈴」と丸文字で書かれている。それが彼女の名前なのだろう。
「お一人様ですか? カウンター席はいかがでしょう……では、ご案内致します」
 右手を胸元の辺りまで掲げて、笑顔のまま席へ案内する。そうして客がイスに座ったのを見計らって、カウンターの奥からメニューがテーブルの上に置かれた。少女とは違う色のエプロンをつけた青年が出したものである。
「いらっしゃいませ」
 本人は笑顔のつもりらしいが、頬は引きつっておりぎこちない表情になっている。体もこわばっており、全身から緊張が漲っていた。あきらかに新人の、慣れていない雰囲気をまとっている。
 しかし、
「コーヒーをご注文ですか? 当店は、豆の種類がいくつかありまして……ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ・マタリ、マンデリン、ハワイコナの五種類になります」
 彼がこの喫茶店のオーナーなのだ。
「こちら、それぞれ栽培されている地域が異なるんです。ブルーマウンテンはジャマイカで栽培されていまして、とても香り豊かで繊細な味わいが特徴です。キリマンジャロは……キリマンジャロはー……えー……っとー……」
 オーナーなのだが、この有様である。
「す、すみません! すぐ思い出すんで! えと、ええっと…………ごめんなさい! 本当! ごめんなさい!」
 額に滲んだ汗が、ツゥッとこめかみから頬を伝って流れていく。それを拭おうともせず、喫茶モントレゾールのオーナー・青山紅太郎は客に向かって深く頭を下げた。
その様子を、右手奥のテーブル席に座っていた年嵩の男性客のひとりが豪快に笑い飛ばす。
 豊かな白髪を後ろに撫でつけているその男性は、ホットコーヒーが注がれた白磁のカップを右手に持ったまま、奥歯が見えるほど口を大きく開けていた。
「この店継いで一ヶ月経つってーのに、まーだ覚えらんねえのか! コータロー!」
 紅太郎は眉間に皺を寄せ、耳まで赤くしてしまう。その姿を見て、案内をしていた少女も苦笑を浮かべる。
紅太郎は一ヶ月前にこの店を継いだ。コーヒーが好きならば、喫茶店で働いた経験がなくとも覚えられたかもしれない。しかし彼は飲み物に頓着しておらず、コーヒー豆で淹れたものとインスタント……その味の違いもよくわからないのだ。そんな彼がコーヒーの種類だけでなく、味についても覚えなければいけないのは難しいだろう。
紅太郎は慌てて新規に訪れた客へ頭を下げ、赤い顔のまま窓際へ向ける。
「有来さん、お静かに! お客様が驚くじゃないですか」
「悪い、悪い! ジジイになると耳が遠くなるから、声がデカくなるんだよ」
有来玲二は笑うばかりで、悪びれた様子がまったくない。
そんな彼の前に座っていたもうひとりの男性客・保藤慶喜は、眉の間に深い皺を刻んで嘆息した。まだ三十代前半であるが、鶯色の着物やピンと伸びた背筋、漂う空気が実年齢より彼を年上に見せている。
「有来さんに構ってないで、さっさとお客さんに水を出してやりなさい。マスター」
「あ! そ! そうですよね! すみません、保藤さん」
「僕に謝っても意味ないでしょう」
 首を横に振って、保藤はテーブルに置かれたコーヒーに口をつけた。かけていたメガネが半分ほどズレてしまうが、直そうともせず鼻腔を広げる。コーヒーの香りを楽しんでいるのだ。
「すみません……じゃなくて」
また保藤へ謝りそうになるのをなんとかこらえ、「あの、大変失礼しました。お水、どうぞ」と、紅太郎はカウンターに座る客へ水の入ったグラスを差し出した。
「先程は失礼しました。それで、コーヒーの説明なんですけど……あ、必要ない? そうですか……え、モカ・マタリで? はい、かしこまりました」
 説明を切られたことにがっかり……するどこかむしろホッと安堵の息を吐き出し、紅太郎は一礼をして客に背を向けた。心なしか口角が上がっているのだが、本人は気づいていないようだ。
カウンターのちょうど対面には、紅太郎の腰の辺りから天井までの作り付けの棚がある。五段ある店の、上から三段目には合計五種類のコーヒー缶が並んでいる。そのうち、右から二番目、銀色に赤のラベルが貼られた缶を取り出し、上蓋を開けた。するとそこから、ふわりとコーヒー粉の香ばしい香りが立ち上ってきた。
 最初にこの店を立ち上げたマスターは自分で豆を挽いていたが、まだ経験の浅い紅太郎は豆の購入先で挽いてもらい、それを納入してもらっている。何度か自分で挽いてみたのだが、どうしても前マスターと同じ味にならないからだ。
 ドリップポットに水を注ぎ、それを火にかける。その間にコーヒードリッパーにペーパーをセットし、その中へコーヒー粉を一人分。そこへ、八二度のお湯をまずは粉全体を湿らせる程度に注ぐ。
「三十秒経ったら……中心から、ゆっくりと『の』の字を描くようにお湯を注いで……」
 口に出していることに気づいていないのか、紅太郎はつぶやきながら手を動かしている。そのたどたどしい手付きは見ている者を不安にさせるが、本人は真剣そのものだ。
 ペーパーから一滴、また一滴とコーヒーの雫が落ちていき、サーバーにゆっくりと琥珀色の液体が溜まっていく。注文した客はもちろん、テーブル席に座る三人の客たちも、店内に充満する香りに釣られて紅太郎の手元へ視線を注ぐ。
 フルーツのような独特の甘ったるい香り……それがモカ・マタリの特徴だ。だが今の紅太郎は、それを嗅いでいる余裕はない。
「一人分……だから、もうちょっと……もうちょ……あ、今!」
 客が見ているということも忘れ、声を上げてドリッパーを外す。それを別のグラスの上に置き、適量が溜まったサーバーを軽く何度か回した。味を均一にするためだ。それを、温めておいたコーヒーカップへ注いでいく。
 たったそれだけのことだが、奥歯を噛み締めて慎重を期す。
「……っよし!」
 サーバーの中のコーヒーを余すことなく注ぎ切ると、紅太郎の口から喜びと共に安堵の吐息がこぼれた。テーブル席の客たちも、同様に胸を撫で下ろしている。
「おまたせしました」
 そんなことなど知らない紅太郎は、カップをソーサーの上に乗せ、カウンターの客の前へ淹れたばかりのコーヒーを提供した。その瞬間を待っていたかのように、タイミングよく鈴が市松模様のクッキーが二枚乗った小皿を持ってきた。
「こちら、おまけです。どうぞ」
「では、ごゆっくりお寛ぎください」
 鈴と共に客に軽く一礼をしてから、紅太郎は道具を片付け始める。その背に、テーブル席に座っていた三人目――唯一の女性客から声が投げかけられた。
「ちゃんと出来たじゃん、青山さん。えらい、えらい」
 二十代前半と見られる女性客は一本に束ねた髪を頭頂部で丸くまとめていた。小さな頭がもうひとつあるような、大きなお団子がふわふわと揺れる。
 女性客の声に紅太郎が振り返ると、彼女は左手に持っていたペンを指先で弄びながら白い歯を見せて笑った。悪意のない、心からの笑み。それでも紅太郎は眉を寄せてしまう。
「からかわないでくださいよ、小須田さん」
「えー! からかってないってー! むしろ褒めてるし!」
 語尾を伸ばす口調がよりからかっているように聞こえるのだが、本人は至って本気だ。紅太郎もそれをわかっているから、怒るようなことはない。ただその表情は、笑みではなく苦笑だが。
社会人として、仕事が出来るのは当然のことだ。ましてや彼はこの店のオーナー。コーヒーを淹れるのが職業である。いくら経験が浅くても、オーナーとなった以上は『当たり前』のこと。紅太郎はそう思っているのだ。
だが、小須田はそんな紅太郎の考えを「偉いものは偉いの」と一蹴する。
「だって青山さん、すーぐパニクッちゃうじゃん? なのに今日はすっごいちゃんと出来たでしょ」
「ま、まあ……それはそうなんですけど」
「もー! ゴチャゴチャ言わない! とにかく、ちょーえらいの!」
 胸を張って主張する小須田だが、紅太郎の眉間の皺は更に深くなっていった。そのやり取りを見ていた有来の「ダメだなーコータロー」という声が飛んでくる。
「褒められたら、素直に喜んどけ。まあ、リカの言い方はアレだけだよ」
「もー! アレってなんですか!? 有来さん! アレってー!」
 チークでピンク色に染めた頬をぷくっと膨らませ、わかりやすく拗ねた顔をしてみせる。その顔は、水を注ぎにきた鈴だけが見ていた。
「ふふっ。里香さんのお顔、フグみたいで可愛い」
 鈴にとっては「愛らしい」という意味での一言なのだろう。だが言われた小須田の方は違うようだ。白い肌が一気に赤くなっていく。更に鈴の声が聞こえていた有来が大きな口を上げて笑い声を上げたことで、ますます羞恥に包まれた。
 話に加わっていない保藤もやり取りはしっかり聞いていた。「フグって」とつぶやいて、ひとり小さな声で笑っている。
 ふたりの笑い声に耐えきれず小須田が大きな声で「笑うなー!」と叫ぶのと、紅太郎が慌てて止めたのは、それから数分後のことだった。

「ありがとうございました」
 十八時。最後の客が店を出ると、紅太郎と鈴は揃って頭を下げた。
 足音が聞こえなくなってから頭を下げ、紅太郎は扉の前に下がっている「OPEN」と書かれた木札を裏返す。裏に書かれているのは「CLOSE」だ。
 表に出してある看板を持ち上げ、これを店内に運べば店外の片付けは完了だ。
 扉を閉め、鈴が鍵をかける。
「お疲れさま、鈴ちゃん」
「おじさんも、お疲れさまです」
 ふたりは顔を見合わせて、どちらともなく笑みを浮かべた。
「今日は結構お客さんきたな」
「ねー。初めての人もいたし、嬉しかったなあ」
 笑顔のままの鈴とは対照的に、紅太郎の顔色はあまりよくない。疲れがモロに出ているのだ。
「でもおじさんは、大変だったよね。いろんな人からあれこれ言われるの、好きじゃないもんね」
「うーん、まあ……」
「途中でワーッなっちゃってたし……おじさん、疲れてるよね。今日は鈴がご飯作ってあげるよ」
 袖をめくるような仕草をする鈴。任せてと言わんばかりの態度だが、紅太郎は慌てて首を横に振った。
「いや、それくらい自分でやるよ」
「でも……」
「大丈夫だって。それにこの店を続けるためには、もっと料理できるようにならないといけないだろ」
そう言うと、紅太郎はさっさとカウンターの奥に行ってしまう。
食材などを保管するストックルームへの入り口は、カウンターの中に入ってすぐの左横にある。木製のドアには、前オーナーの考えで入り口には鍵をつけていない。中は、一坪ほどの空間となっている。
 アルミ製の棚がいくつか壁に沿って設置されており、食材、日用品など、使うものによって棚が別れていた。その中でひとつ異質なのが、手前に置かれた「家族用」という紙が天板に貼られたカラーボックスである。紙に書かれてある通り、客に出すものではなく家族が使う私物や使用品など、家族のみが使用する食材が置かれた棚だ。三段になっており、一段ずつ白いカゴが収納されている。
カゴを引っ張り出すと、中には未開封の缶詰や、開封済みの菓子袋などが乱雑に入っている。その中から半分ほど中身がなくなった乾燥パスタ麺の袋を手にすると、紅太郎はすぐにカウンターへ戻ってきた。
深鍋に水をたっぷり注ぎ、火にかける。
「鈴ちゃん、ストックルームからソース出してくれない?」
 言われた通り、紅太郎が先程パスタを取り出したところから、鈴は市販のミートソースの缶詰をひとつ取ってきた。すでに調理済の商品で、鍋やレンジで温めるだけで使用できるお手軽ソースだ。
「お鍋であっためればいいんだよね」
「うん。お願い出来るかな?」
「任せて!」
 紅太郎の隣に並んだ鈴は、缶の中身を半分ほどミルクパンに出す。残りは封の出来るパックに入れて冷蔵庫へ。缶を洗いながら、鍋の方は弱火で温め始めた。
 トマトの爽やかな匂いに、わずかにハーブの香りが混じってふたりの鼻孔をくすぐる。塩コショウを効かせたスパイスの匂いもあって、特に紅太郎の空腹が刺激される。
「このソースも美味しいけど、お店で出せないのが残念だよね。おじさん、作ったりしないの? ほら、そうしたらお店で出せるようになるよ」
「いやあ、なんか……ソースって作るの難しそうじゃないか? まだ包丁もまともに使えないしさ。もうちょっと勉強してからな」
 沸騰したお湯にパスタを投入しながら、紅太郎は苦笑した。
 紅太郎がオーナーになってから、前オーナーの時には出ていた一部メニューが提供されなくなった。紅太郎は、料理が出来ないからだ。だから彼は今、プライベートな時間で料理の勉強をしている。だからパスタを茹でることも、一ヶ月前の紅太郎にしてみれば立派な「料理」なのだ。鈴はそれをよく知っている。なにせ紅太郎が店を継ぐ決意をする前は、クッキーさえまともに作れなかったのだから。
 コーヒーはもちろん、最近はパウンドケーキも作れるようになった。黒焦げでもなく、生焼けでもない。しかも美味しい。何度目かわからないそのパウンドケーキが出来た夜は、ふたりで泣きながら喜んだ。そんな叔父のことを、鈴は呆れるどころか勉強熱心だと感心している。
 だからソース作りも、難しいけれど「頑張ってくれる」のではないか、と鈴は期待してしまったのだ。
 火にかけたソースが焦げないよう時折木べらでかき混ぜながら、鈴は「そうだね」と残念そうにつぶやく。その眉が下がった横顔を見て、紅太郎は胸の辺りをぎゅっと鷲掴みにした。
 グツグツ、と。
 沸騰したお湯から気泡が浮き上がるように、紅太郎の中にある申し訳ないという気持ちが湧き上がる。
「……いつか……出来るだけ早く! 作れるように頑張るよ。でもまずは、この店で出していた料理を作れるようにならないとな。姉さんが残してくれたレシピもあるし」
 早口でまくし立てるその姿は、明らかに頼りない。それでも、鈴の顔にはパッと花が咲いた。
「お母さんの味がまた食べられるようになるの!?」
「あー……うん。そうなるように、頑張るよ」
「うんっ!」
 髪が宙で踊るほど大きくうなずき、鈴はまたソースの温めに戻る。
 本当に作れるようになるのか。紅太郎の中にまだ不安はあるし、作れなかった時の罪悪感でもう押しつぶされそうになっている。それでも、「やっぱり無理」と否定することは出来なかった。
「わたしね、あれ食べたい。お母さんのアップルパイ! お父さんも大好きな味なの」
 だからお店で出すようになったの、と付け加えて、鈴は火を切ってソースパンをコンロから上げた。
「お店でも、人気だったんだよ~」
 コロコロと声が弾んでいる。しかし紅太郎の表情は冴えなかった。
 この喫茶店は元々、鈴の父親であった田島陣が始めた店だった。妻であり、鈴の母である菊子が作るスイーツは評判がよく、仲のいい夫婦が経営する喫茶店として近所の人々がよくやってきていた。
「なら尚更、復活させたいな。あーでも……アップルパイかあ。それは食べたことなかったな」
「おじさん、甘いの苦手だもんね」
 クスクスと小さな笑い声を上げる鈴に、紅太郎も「まあね」と笑顔だ。
 菊子の弟である紅太郎は、鈴のことも生まれた時から知っており、彼にとって鈴は年の離れた妹のような存在である。
 茹で上がったパスタをザルに上げ、オリーブオイルを一回し掛けて全体にあえる。それからパスタを一人前ずつ皿に盛り付け、温めたソースを上からかけた。
「はい、出来上がり」
カウンター席に皿を並べると、鈴はいつの間に準備していたのかレタスやプチトマトが乗ったサラダボウルを横に並べた。フォークとドレッシングもしっかりカウンターに置いてある。
 それぞれイスに座り両手を合わせて、
「いただきます」
 ふたりの声がハモッた。
 紅太郎はサラダから、鈴はパスタを口に運ぶ。ふたりが立てる食器の音が、BGMを切った店内によく響く。
 サラダにはドレッシングにオリーブオイルに酢と塩コショウ、マスタードを混ぜたものを使っている。これは鈴の母親が好きで喫茶店でも使っていた味付けだ。さすがに材料を混ぜるだけなので、紅太郎にも作れる。
「このピリッてしての、鈴も好き~。いっぱい食べられちゃうよね」
「わかる! 病みつきなるよな」
「お父さんはね、これを蒸したおいもにかけてポテトサラダ作ってたよ」
「それ酒がすすむやつだー」
 カラカラと笑う紅太郎の口に、パスタが再度運ばれる。
「缶詰だからってバカにするヤツいるけどさ、万人が『美味しい』って思うソースだからな。下手に手作りするよりもずっとうまいよ」
「ふふっ、わたしもこのソース好きー」
 サラダを食べ終えた鈴も、大きな口を開けてソースを絡めたパスタを口に運んだ。口の回りをトマトソースの赤色で汚した鈴は、溢れるような笑みを浮かべた。頬をリスのように膨らましてもう一口。
「おじさん、お仕事どう? 慣れてきた?」
 鈴の質問に、サラダを口に運ぼうとしていた紅太郎は眉間に皺を刻んだ。
「今日の俺見てるのに、それ聞く?」
 鈴が何も言えないでいると、紅太郎は眉間に皺を刻んだまま嘆息した。
「やっぱり俺には、接客業は向いてないんだよ。失敗しちゃダメだって思うほど緊張して頭真っ白になるし、怒られるんじゃないかって不安で吐きそうになるし……」
フォークを持っていた手が次第に下がっていき、パスタは皿に戻ってしまった。
「自分が経営者なら、誰にも文句言われないと思ったのにさ。お客さんの方が理不尽なこと言うんだって、初めて知ったよ。メニューにないもの頼んできたり、ちょっとしたことで怒ったり……いや、別にそんな客ばっかりじゃないけどさ。でもなんか……なんもなくても、客からジッと見られるだけで怖いんだよ」
 最後はほとんど独り言になっている。その表情は次第に暗くなり、目もうつろだ。その後も何か話しているようだが、ほとんど聞こえない。
何か思い出したのだろう。テーブルに置いた手は小刻みに震えていた。額には珠のような汗が浮かび、全身が強張っている。
「ごめんなさい……」
今にも泣きそうな声。我に返った紅太郎が視線を向けると、鈴の瞳は涙で潤んでいた。少しでも動いたら、こぼれ落ちてしまいそうなほど。
「ごめんなさい…………」
 もう一度謝罪を口にして、鈴は唇をきゅっと真一文字に結んだ。
「鈴ちゃんが謝ることじゃないだろ」
「でも……」
「辛いけどさ。この店を継いだのは、俺の意思だから」
 紅太郎は笑みを浮かべた。頬が引きつり、とてもいい笑顔とは言えないが。
「そりゃ鈴ちゃんが来なきゃ継ぐこともなかったけどさ。けどまあ、社会復帰しなきゃって思ってたから、いいタイミングだったよ」
 それが嘘か本当か。
 鈴は口を開いて尋ねようとしたが……
「そっか! なら、これからもよろしくね。おじさん」
 言葉を飲み込んで、代わりに笑みを浮かべた。