幼い頃に母さんからもらった、青色の小さな箱。
フタのついたそれに、大切なものを入れてきた。
ジュースの瓶についてた王冠、ビー玉、国旗のついた爪楊枝――初めて俺が撮った、空の写真。
それを取り出して、指の腹で撫でてみる。
「あの時は、世界一綺麗な青色だと思ったのに……」
言葉が鼓膜を震わせ、身体に入り込む。瞬間、胃がきゅうっと絞られるような感覚に襲われた。それを消そうと、俺は箱の中身を全部ひっくり返す。
中には子どもの頃に宝物だと思っていたガラクタに混じって、撮り続けた、105mm×148mmの世界たちが床の上へ落ちていった。
何百枚という世界の上へ寝転び、その中の一枚を無造作に掴んでみる。
白い雲、青い空、銀色のビル郡、黄色の花、赤く色づいた山、茶色の犬、緑色のアイス、三毛の猫、七色の虹……
あの時は夢中になって撮っていた。
世界を切り取って、そして見せる度に笑ってくれるのが嬉しくて、もっと撮った。
でも今は――
「……っ」
星波島へ来てから撮った海の写真を一枚掴んで、天窓から注ぐ星の光に照らして見る。だけど、やっぱりダメだった。
この写真だけじゃない。
ここにある何百枚っていう写真が、モノクロに見えた。
大切な人の笑顔だけじゃない。この写真には、たくさんの人からの拍手や尊敬の声が詰まっている。
でも今の俺にとってこの散らばった世界たちは、ただの紙切れ。なんの価値も見出だせない。
「捨てたいのに……なんで、捨てられないんだろ……」
息苦しくなって、星から目を逸らすように寝返りを打ち、身体をくの字に曲げた。
でも、俺の視界が『俺』を逃がさない。
見慣れたカメラが、目に飛び込んできた。
喉の奥が、ぎゅっ、と絞られる。
もう古いものだから、買い直すように言われたこともあった。でもこれには、思い出がたくさん詰まっていた。俺が覚えていないことも、全部。
機能は古いし、あちこち傷だらけ。それでも不具合が出る度、修理に出して、大切にしてきた。
だってこのカメラは、初めて買ってもらったもの――俺にとって、分身みたいなものだったから。
あの時は、世界がキラキラしていた。
あの時は、激しく胸を揺さぶられた。
だけど俺の世界は、あの日、一変してしまったんだ。
無駄にデカい手のひらで掬った何もかもは消え、写真たちは紙くず。心に灯っていたはずの熱も、いつの間にか冷たくなっていた。
そうして、どこまでも続くと思っていた俺の世界は、今、この部屋の天窓と同じくらい狭くなってしまった。
世界を狭めて閉じこもっているのは……自分自身、だけど。
でも、それでいい。
もうキラキラも、あの熱くなるような瞬間もいらない。
俺だけの世界をフレームに収める気も、果てしなく続く世界にも興味がなくなった。
このまま、ずっとこの手に届くだけの世界で生きていくのがいい……。
世界を閉ざそうとしたその時、どうしても耳に残る声が聞こえてきた。騒がしいあそこだったらそうでもないけど、この静かな島ともなれば夜8時に大きな声で喋っていたら、嫌でも響く。
「最悪」
つぶやく声に合わせて、眉根が寄る。
この声の主たちを、知っている。というか、ひとりは隣に住んでいる……あの人。
近所に越してきたから、年齢が近いから。
ただそれだけの理由で、あの人たちは俺の世界に踏み込んできた。
「外出てこいよ!」
「ちょっとでいいから、学校に来ないか?」
「それが嫌なら、一緒に遊ぼう!」
どれだけ突っぱねてもめげずにやってくるし、隠れていても見つけ出す。例えひどい言葉を言ったとしても、次の日には笑ってまた俺を誘ってくるんだ。
お節介なヤツら。
放って置けばいいのに、あの人たちは連れ出そうと、俺の世界を広げようとする。
島の子どもってみんなあんな風に無遠慮で、距離感がないんだろうか?
本当にめんどくさい。
めんどくさい、はずなのに……
心に、失くしたはずの熱がまたじんわり広がっていく。
それは、初めてカメラに触れた瞬間の感覚と似ていた。
目の奥がチカチカして、めまいがする。
なんで? あんなヤツら、うるさいだけ……なのに。
自分の感情がごちゃごちゃのまま、カメラをもう一度掴んでみた。そして、今度は天窓にレンズを向けてみる。
その先に広がるのは、大小様々な星たち。
小さな光、大きな光、少し青白いもの、ほんのり赤いもの。
あそこでは見られなかった星が、そこにある。
「……まだ、色はついてるかな」
ぼそりとつぶやいた声は、すぐ大きな声によってかき消された。
世界を閉ざそうと作り上げた壁が、ガラガラと音を立てて壊されていく。
「宇良星真! まーたゴロゴロしてんのか! いーかげん外に出てこい!」
面倒で。
「こいつ、カメラ買ったらしくてさ。星真に写真の撮り方を教わりたいんだってさ」
お節介で。
「ねえ、星真君。よかったら、星波島自慢の星空を撮る方法、教えてくれないかな? 私、星真君と一緒に写真を撮りたいの!」
バカがつくほど優しい、この人たちによって――……。
テキスト:浅生柚子( @asaiyuz5 )