【BACKSTAGE Story】Reach for the moon

控えめなクーラーの稼働音が狭い部屋に響いていた。
外からは、夜だというのに蝉がわんわんと騒ぐ声が聞こえて来る。音を聞いているだけでも暑さを感じるというのも不思議なものだ。……騒いでいた、というのはいくら何でも失礼か。
(求愛行動、だもんな)
限りある命を削りながらも俺はここにいる、とオスがメスを求める声。それはさながらラブソングだ。
そんなことを思いながら、俺は手にしていたスマホをポンと放りながら壁にもたれかかった。

つい数十分前に、俺が作った曲の歌詞が公開された。
『Key Link Heart』
そう名付けられた曲が、ようやく本当の意味で生まれたのだ。
(まあ、まだフルどころかサンプルも聴いてもらってないけどな)
それでも、この曲はもう俺の手を離れた。後はMIX作業をする有貴と、この曲を聴く人に委ねられたわけだ。
そわそわとスマホの画面を見ては、再び空に視線を戻す。スマホがぶるぶると震える度に、画面に視線を投げる俺がいた。
(……我ながら分かりやすいよな)
こんなにも落ち着かないのは、この曲がSeekerたちに受け入れて貰えるだろうかと、らしくもなく不安を感じていたからだ。
……恐れ、といった方が正しいかもしれない。こんなにも不安に思ったのは簡単だ。
(“Seekerたちが思う俺”とは、ちょっとイメージ違うだろうしな)
人は誰しも『その人だから見せる顔』というものがある。意識、無意識に関わらず人は何かを演じているのだ。
演じているというと聞こえが悪いかも知れないが、当然のことだと俺は思う。上司に見せる顔と友達に見せる顔が違うのと同じことだからだ。
(そういうのが良いとか悪いとかじゃなくて)
それと同じように。
メンバーであるあいつらに見せる顔と、俺たちを支えてくれるSeekerに見せる顔が違う。俺の場合、それが少しばかり差があるだけだと思う。
(ま、それを言うなら叶亜と……あと新もか)
バンドメンバーである俺が知る叶亜も新も、純粋に音楽を楽しむバンドマンでしかない。だが、どこかには俺の知らない顔をする叶亜や新だっているのだろう。
(……むしろ、いて当然か)
あいつらの場合は、背負っているものが沢山あるのだから。
(叶亜はまだしも……新がそれをどう思ってるのかは一回も聞いたことがないけどな)
その事情にちょっかいを出したいとは思わない。だが、思えばそれを知りたいと思ったこともなかったように思う。
スタブルに新は必要不可欠だ。
だからこそ才能を持つ新を飼い慣らしたいと思うのは事実。だが、あいつのことをもっと知ってみたいと思うのもまた事実だった。
もっとも、あいつ自身がそれを許すのかは分からない上に――
(そんな機会があるのかは……分かんないけどな)
そんなことを思いながらふっと息を吐く。どちらにせよ、俺にはどうすることもできない話だ。
新や叶亜に比べれば、俺の持つ『差』なんて小さなものだろう。きっと。
Seekerたちが思う俺、というのはきっと少し強引だが陽気で気のいいリーダー、といったところだろうか。あとは……まあ、それなりに音楽に一生懸命とか?
(だけど)
この曲には、そんな部分は欠片も見えなくて。きっと『陽気で気のいい』一面は深くに潜ってしまっている。
ラブソングと呼ぶにはどこか湿っている。けれど、俺はここにいるのだとあげる声は、紛れもなくラブソングなのだった。
俺のラブソングは、届くだろうか。
(……こればっかりは分かんないよな)
返ってくる声はない。
そいつは近くにいると思えば、いつの間にか遠くへ行っていて。掴めると思った瞬間に、俺の手をすり抜けていくのだ。
(厄介な奴に心を奪われたもんだよな、俺も)
音楽の女神はいつだって気まぐれで自由で、俺の想いに気づきもしない。
(いつか掴んでやるからな、絶対に)
だからこそ、俺はそう決意してぐっと手を握る。
見上げた空は、満天の星空と呼ぶには少し遠い。俺はその光景に、ふと昔のことを思い出した。

* * *

「お、やっぱ上手いな。才能あるんじゃないか?」
「やっぱりか! 実は俺もそう思ってた」
「っておいそれは調子乗り過ぎだっての」
それはどこにでもある、バンドマンの一幕だった。
流行の曲をバンドアレンジしては演奏するコピーバンド。
それでも「このAメロは敢えて原曲から外して、俺たちらしさを出して演奏してみよう」なんていっちょ前にそんなことを思いながら演奏をしていたのだ。
あの時の俺は、あいつの言った『才能』なんて言葉に胸を躍らせていた。あいつが言ってくれたのだから俺には本当に才能があるんだと、そう思っていたのだ。
「ま、それは冗談にしても……最初はおぼつかなかったけど、今はだいぶモノにしてるって感じ。さっきもドラムスティック、くるくる回してただろ?」
家でこっそりと練習をして、ようやくそれらしくなってきたのがつい三日ほど前のこと。
「見てたのかよ」
「当たり前だろ。お前を見つけたのは俺だしな」
「……そっか」
俺に『手段』を、そして進むべき道を示してくれたあいつは、そう言ってケラケラと笑っていた。
こいつとなら俺はどこまでも行けるんだと、変われるのだとそう思っていたのだ。
(……あの時は楽しかったよな)
しかし、あいつはもう俺の手の届かないところに行ってしまった。
それはさながら、空に浮かぶあの月のように。求めれば求めるほど応えてくれない音楽のように。どんなに手を伸ばしても、俺の手はもう届くことはない。

* * *

あいつと見た夢に未練がないと言ったらそれは嘘になる。あの時ああしていれば、なんて考えることもしょっちゅうだ。
(もしもあいつに会ったとしたら……そのとき俺はちゃんと笑えるか?)
そんな問いかけに、俺は頷くことは出来なかった。
それは答えがNOだからではなく、俺自身にも分からなかったから。
だがそうあれたら良いなとは思う。そう思うからこそ、俺は俺の手段で前に進むしかないのだとも思う。
(あー……恋心は、男は別名保存で女は上書き保存だっけか)
今まではその言葉に笑っていたけれど、それもあながち間違いではないだろう。
別名保存だからこそ、その思い出と想いにそっと鍵をかけて、フタをするのだ。また一歩、前に進むために。
(……これでいい)
これが俺なりのケジメのつけ方でもあったのだ。

曲で、聞いた人の想いを変えることはできるだろうか。
前だったら、俺はきっと無理だと鼻で笑っていただろう。だけど、今の俺はそれを鼻で笑うことなんてできなかった。
(……俺は、変わった)
そうさせたのは紛れもなくスタブルだった。俺の……俺たちの曲が、いつかあいつにも届いてほしいと思うのは、勝手なことだと分かってる。
でも、そう願うことくらいはしたっていいだろう。
この曲が一つの星になって、いつかスタブルと言う名の広い空を、満天の星で染め上げられれば。
――なんてガラにもないことを考えた。

そんな空に比べたらこの部屋は狭いはずなのに、どうにも広く感じられて。いつもなら、ここで手近な奴に連絡を取る。スマホの着信履歴の一番上にはそこそこ親しい女の名前があるはずだ。
(あーそれともまた有貴のとこ行くのもありだな)
有貴の家に行けば、なんだかんだ言いながらも夜食くらいは出してくれるだろう。
(あいつも最近なんか丸くなったしな)
スマホに手を伸ばしかけて――そして引っ込める。
今の俺の胸に居座るちょっとした寂しさと満足感、それから感傷。
それらは相反する感情だったが、不思議なことにちゃんと同時に成立していた。俺をこうさせているのが曲を作ったからなのだとすれば。
(今まで曲を作ってきた奴ら――有貴に亜蘭もこんな気持ちになったのか?)
誰かと過ごせば、その寂しさは埋められる。
寂しさなんて本当はない方が良いはずなのに、どこかで『これでいい』と思う俺がいた。
(……これは俺だけのものだしな)
だとすればこの感覚を共有してしまうのは少しもったいない気がして。
(俺のものは俺だけのもの、だ)
俺の手はスマホに触れることなく、床の上に落ちた。
直後、再びスマホが震える。そこに表示されているのは、SNSの通知で。
(Seekerに歌詞の感想をねだったから、それか?)
月には手が届かない。見上げた空は相変わらず満天でもない。これが、俺の前にある確かな現実だった。
(だからこそ、俺にできる手段でやっていかなきゃだよな)
過去には鍵をかけて、俺は届くのことのない月ではなく目の前にあるスマホに手を伸ばした。