【BACKSTAGE Story】Keyhole

『行かないで。このままここにいて』
その言葉と共に、俺より一回り小さな彼女の手が俺の手を掴む。振りほどきたいと思うけれど、俺はそれができないでいる。
俺の身体のはずなのに、俺の言うことを聞いてはくれなかった。それがもどかしいけれど、当然と思っている部分もあって。
そんな諦めを自覚すると、ふっと意識が浮上した。

浅い眠りから目を覚ます。
(また、か……)
結局彼女の手を払うことも、そしてその言葉に頷くこともしないで、いつもと同じように目が覚めた。
日本に戻ってきてからも、時折この夢を見る。ここまで覚醒してしまったから、もう寝なおすことも出来ないだろう。
俺は枕元のスマホに手を伸ばして、SNSを覗いた。
画面には、珍しく弱音や苛立ちの言葉が並んでいる。
(初めてならば、それが普通……なのかもね)
どうやら亜蘭も依空も、曲作りがあまり上手くいっていないらしい。ふと自分のことを振り返っては、そっと首を振った。
(とは言え……)
亜蘭も依空も弱音を吐いてはいても、俺に直接助けを求めているわけではない。困っているのを見かねて連絡を取り、作りかけの曲を聴いてアドバイスすることは簡単だ。
(けれど、それじゃ今までと変わらない)
そうして出来上がるのは、かつて俺が作っていた曲たちと変わらないものだろう。それでは意味がない。
そもそも俺が楽曲制作を辞めたのは、この先が見たいと願ったからで。だとすれば今の俺がすべきことはきっと、ただ手を差し伸べるのではないだろう。
(しばらくは見守っていようかな)
そう思えることに、笑みが込み上げてきた。

聞けば亜蘭はどうやら叶亜の助けを借りているらしい。
「叶亜に協力を頼むって、亜蘭が?」
「うん。この前の話し合いでそう言ってた。でも『あいつには絶対言うなよ』って」
亜蘭らしい言葉だ。
「そう、きっとそれは良い判断だろうね」
「うん。俺もそう思う」
叶亜は、音楽のセンスや技術に関しては俺よりもあって、自分の人生を妥協しても、こと音楽に関しては妥協がない。実際にどんなものが上がってくるのか、俺はまだ知らないけれど、叶亜のことだ。亜蘭を甘やかすことなく全力でサポートするのだろう。
そして曲はゆっくりと、確実にできてきていると新から聞いた。

そして曲ができたとなると、次は歌詞だ。こちらは新が担当する予定になっている、が。
叶亜が亜蘭のフォローをしていると知ってから、何やら新の中ではたくらみがあるようで。
「それにしても随分と楽しそうだね」
「そうかも」
「何か面白そうなことでも考えているのかな?」
その言葉に新は少し考えて、いたずらっ子のような顔をして口を開いた。
「んー……内緒」
くすくすと新は笑っている。新のことだから、依空と違って『内緒』の企みで悪いことをするとは思えない。
「気になる?」
新の内緒が気になるのは事実で、俺は頷く。けれど新はふっと微笑むばかり。
「大丈夫、そのうち分かる」
「……そう。じゃあその時を楽しみにしていようかな」
新に『内緒』をされた事実に驚きながらも、どこかこれも悪くないと思える俺がいたのだ。

――それから数日。

「曲できた! 今から行くから聴いてくれないか?」
スマホにそんな連絡が入ったのは、本格的に夏らしい暑さが訪れようとしていた日だった。送信されてから数分後にそのメッセージに気づいた俺は、手早く返信する。
「分かったよ。待っているね」
そう返すと次の瞬間には、彼が俺のメッセージを読んだ印が表示された。彼にしては珍しく、ずっとスマホを握りしめて俺の返事を待っていたのかもしれない。
その光景を思い浮かべて、俺はふっと息を漏らした。彼なりに必死なのだろう。
「さて、と」
何分後になるかは分からないが、あの様子ではそうかからずにインターフォンが鳴るに違いない。
彼が来るからと言って今更部屋を片付けるような間柄ではない。けれど一応、と俺はテーブルの上に広げられたスコアをひとまとめにした。


部屋のインターフォンが鳴ったのは、それから一時間もかからなかった。
いつもならばもっとずけずけと上がり込んでくるのだが、今日の依空は珍しく控えめだ。曲を作り終えたばかりで、疲労しているからかもしれない。
「あー……曲、できたんだけど……」
「うん、聴かせてもらえるかな」
「ああ。データ、PCに送っておいた」
「用意がいいね。ちょっと待っていて」
PCを操作しながらちらりと横を見れば、いつもの自信に満ちた依空の表情だ。けれどその表情の一番奥、瞳で揺れているのは少しばかりの不安だろうか。
再生ボタンをクリックすれば、PCのスピーカーから依空の作った曲が流れ出す。お手並み拝見、とばかりに耳を傾けた。
依空は目を瞑っていて、何を考えているのかは分からなかった。

「♪~」

それから曲が終わるまでの五分と少し、俺と依空は一言も言葉を発さなかった。発せなかったのだと思う。
「これが依空の曲、なんだね」
「あ、ああ」
「……」
曲の感想は、『少し意外』だった。
依空が音楽に対して、並々ならぬ感情を持っていることはもうとっくに知っている。恐らくスタブルにいる誰もがそれを知っているだろう。その感情はあまりにも強く、時折暴力的なまでのエネルギーを覗かせることだってある。
(それだけ本気、ということなのだろうけど)
だからこそ依空の作ってくる曲は、そんな依空の想いを全て飲み込んだ、暴れ馬のような激しいものだと、 勝手に思い込んでいたのだ。
(……まさかこんな曲を作ってくるなんてね)
今依空が出してきた曲は、想像していたような分かりやすいものではなかった。
何か怨念めいたものが深い深い沼の中からこちらを覗き込んでくるような、そんなぞわりとした感覚を覚える。
(これが依空の想い……)
あの暑苦しい想いの奥にはこれが眠っていたのだ。いや、きっと今でも依空の中にはこれが眠っているに違いない。ずっとずっと、依空の中で静かに息をし続けている。
じっとりと、けれど力強さを感じる曲に俺はただ息を吐くしかなかった。どんなに沢山の曲を作れたとしたって、きっと俺にはこの曲を作ることができない。
「なんか、やっと形になったって感じ。結構苦労したしなー」
ぼんやりとしながら依空はぽつりと呟いた。言葉とは裏腹に、表情は随分とすっきりしているように見える。
そのちぐはぐさもまた依空らしいと思った。
「曲作り、どうだった?」
「分かっちゃいたけど、やっぱ楽じゃないよな~。手探りだったし、分かんないことだらけだし」
「……そうだね、答えなんてどこにもないから」
「だな」
曲を作るのは楽じゃない。
依空の言葉に俺は心底同意した。スタブルの曲をいくつか作ってきた俺ですら、スムーズに作れたと思うことはあっても、楽だったと思うことは一度だってなかった。
曲作りは楽じゃないし、納得がいかずに悩むこともある。
けれど出来上がったときのあの解放感とほっとする喜びは、実際にやってみないと感じることが出来ないものだ。そして他のことでは、その感覚は代用もできない。
(なんてこんなこと、誰にも話してはいないけれどね)
思えばここしばらく、その感覚になったこともない気がする。スタブルで曲を作るのを辞めた、と俺が決めたのだからそれも当然のことかも知れなかったけれど。
「分かんないしどうしようもないって思った時もあったけどさ……」
ふと、依空が口を開いた。続きの言葉を探して……やがて自分の中でしっくりくる言葉を見つけたらしい。
「でもさー、こういうもの悪くないよな。なんだかんだ曲作り、楽しかったし」
そう口にした時の依空の表情ときたら。
きっと俺はこれから先、忘れることは出来ないだろう。仮に忘れろと言われたところで、忘れる気なんてさらさらない。
曲が形になった安心感からか、それとも心を晒す方法を見つけたからか。依空は穏やかに、そして柔らかく笑っていたのだ。
きっとこれが依空の本質の一部で、いつもの依空が隠している根っこの部分。
(曲作りは楽しい、か……)
依空の発した言葉に、俺はふと昔のことを思い出した。

* * *

その日は待ち合わせの時間まで、PCの前に座って作業をしていた。PCの画面に浮かんでいるのは、いくつもの五線譜。
曲のストックはあった方が何かと良いだろうと思い、曲を作ろうとしていた。
気分が乗りきらないからか、これといった衝動やテーマがないからか。理由は分からなかったが、八割がた完成していたもののどうにも納得できずにいた。
(さて、ここからどう手を加えたものか……)
浮かんでくるいくつかの案を、作りかけの曲にはめてみてもどうにもしっくりこない。かれこれ三十分は手が止まってしまっていたが……これは一旦時間を置いてみた方がいいかもしれない。
「……そろそろ行くか」
時刻を確認すれば、新との待ち合わせまでまだ時間があったけれど。気分転換も兼ねて、俺はもう家を出てしまうことにした。


「ぶどうのジュースが美味しかった」
隣を歩く新は随分と上機嫌だった。
「新は赤ワインがお気に入りだね」
「ありたかに似ちゃった?」
「そうなのかもしれないね」
久々に新と共に夕食を食べ帰路についていると、雑踏に交じって隣から鼻歌が聞こえてきた。新の鼻歌は街頭テレビで流れている曲のときもあれば、CMに起用された曲、それから童謡のワンフレーズなんてときもある。
このときはそのうちのどれでもなかった。
「それ、新の曲?」
今まで聞いたことのない曲だったから、そう問いかけてみれば新は頷いた。新の歌詞は見たことがあるけれど、曲はまだない。
「そう言えば新は曲、作ってみようと思わないの?」
「今はいい」
返ってきたのは、新らしからぬ否定の言葉。……新の中で、何か思うことがあるのだろうか。
「……そう」
もったいないと思いながらも、俺はそう返した。いつか新の生み出す曲にも触れてみたい……と思うけれど。そう言うものは、誰かに強制させれられてやるものじゃないとも思う。
いつかその日が来ることをそっと願っていると、新は俺の顔をじっと見つめていた。
「ねえ、ありたか」
「どうしたの?」
「今日、ちょっと元気なさそう」
「……そうかな?」
「うん。……もしかして曲作り、楽しくない?」
「曲作りが?」
時間があったから曲を作っていることはぽろりと零したけれど、『今作っている曲で少し悩んでいる』なんてことは言っていない。
「……」
新の言葉に、俺は考え込んだ。
曲作りが楽しいかそうでないかなんて、考えたことがなかったから。依空に作ってくれないかと言われて、俺はそれを果たしているだけだったのだ。
恐らく、周りの人が言うよりもずっと、俺はそつなく物事をこなせるタイプなのだろう。それは、曲作りにも言えて。
大した苦労なく、曲を作ってきてしまった。できるからこそ、できてしまうからこそ、楽しいかどうかなんて考えてこなかった。
『曲作り、楽しくない?』
新の口にした何でもないようなその一言が、新と別れてからも喉の奥に小骨のように突き刺さっていた。

俺にとってのスタブルは、何なのだろう。
それは今まで無意識の内に考えないようにしてきたことだった。自覚をすれば、もう見なかった振りはできない気がして。きっと、認めたくなかったのだろう。
スタブルが、それからメンバーたちが俺の中で随分と大きく育ってしまっていることに。もう知らなかった頃には戻れない。
作りかけの曲がどうにもしっくりこない理由を自覚して、俺はそっと首を振った。
(見なかった振りをするのは……ここまでみたいだね)
星明りの青空の下、自分たちの音楽をする場所という意味が込められたこのバンド名。空は途切れることなくどこまでも続いていて、終わりがないものだ。
けれど俺の中でこのバンドをメンバーと続けることは、俺の中ではある種の旅だと思っていた。自分たちの行けるところまで進んで、新しい世界を見る旅。
だからこそ、思う。そんな俺たちはどこまでいけるのだろうか、と。
始まりがあったのだから、いつか終わりは訪れる。同じように旅もいつかは終わり、それぞれのある場所に帰るのだろう。
(だとすれば……)
その旅の終わりは、そしてゴールはどこにあるのだろう。
考えれば、それが明確になってしまうからこそ、見ない振りをしていた。
そして同時に思うのだ。
(もしかしたら、ここにはあるのかな)
俺が欲しいと願っても手に入れられなかったものが、旅を続けていればいつか手にする日がくるのかも知れない、と。
一歩進むごとに旅の終わりが近づくだろう。けれど、俺たちが進む先にあるものを見てみたいと思ってしまったのだ。
俺は静まりきった部屋の中で、そっと何かに向かって手を伸ばす。まるで何かを掴もうとするように。俺の手は宙を切るばかりだったけれど、そんな風に何かを掴もうとする手に覚えがあった。
(……懐かしい、と言える程昔のことではないけれど)
叶亜の脱退の一件で見せた亜蘭のあがき、それから。
(俺を引き留める依空の連絡――)
ぐっと俺は手を握る。何かを掴みたいという想いや行動は、結果的に意志を繋ぎとめるのだ。
伸ばした手に、いつかの光景が重なった。

* * *

あれは、フランスに長期滞在していたときのことだった。家の事情でフランスに行ったものの、すっかり日本に戻るタイミングを失ってしまっていたのだ。
理由は簡単。
「……」
彼女の手が、俺の手を掴んだまま離れようとしなかったから。
「行かないで。このままここにいて」
そんな言葉に、俺はいつものように頷こうとして――思いとどまる。
俺をそうさせたのは、依空からの連絡だった。
フランスにいたとしても、メンバーは変わらずに日本で活動をしている。となればメンバーからも何度か連絡をもらっていた。
その連絡の大半は、叶亜からのもので。スマホのチャットアプリのメッセージ欄をスクロールすると、その中から依空からのものを見つけた。
メッセージの頭には「連絡」。
そう、その業務連絡こそが俺を引き止める糸だった。
『曲完成が来週の水曜、その週の土曜から練習を始める予定。スタジオへの連絡は叶亜に依頼済み。ちゃんと練習にはでろよ!』
そんなただの業務連絡なのに、そこには俺の不在が含まれていなかった。
(俺が今、日本にいないことは知っているはずなのに……)
俺が当たり前のように曲を作り、当たり前のように練習に参加し、当たり前のようにステージに上がるスケジュールが組まれていたのだ。
それはまるで、俺を逃しはしないと言っているようで。
(相変わらず、だね)
依空は傲慢だ。だからこそ、できることでもあった。
「……ねえ、行っちゃうの?」
俺の腕をつかむ彼女の体温が伝わってくる。他の人よりもずっとずっと低いそれに、俺は振りほどくことができないでいた、はずだったのに。
「……」
俺にはずっとずっと欲しいものがあった。どうしても欲しかったのに、どうしても手に入らないもので。
俺は少し前に、ようやく気付いたのだ。
それはきっと、この手を振り払って、俺が手を伸ばさないと手に入らないものなのだと。
『ならさ、ギターかベースをやってみるとかはどうだ?』
『色葉は……なんか、ベースが合うような気がする』
あの時の言葉が……
『なあ、俺と一緒にバンドやらないか?』
差し出された手の熱が、俺を動かしたのだ。
(これで良いかなんて、俺にだって分からない)
彼の手を取った瞬間に感じたものの答えを、俺はまだ出せていない。それでも分かることがあるとすれば。
(このままじゃ、届かない)
繋がれた手のままでは届かないということ。
(……ごめんね)
心の中で彼女にそう告げて。気が付けば俺は彼女の手を振り払って、日本に向かう飛行機に乗っていた。

* * *

あれから少しばかりの時が経ったけれど、いまだにこれといった答えは出ていない。それでも変わらないものがある。
(……あがけば、手を伸ばせば届くかもしれないと思えること)
そうさせたのは、そして俺をそう変えたのは他の誰でもない君だろう、依空。
きっと依空自身は露ほども知らないに違いない。もっともこれから先、知られるつもりもなかったけれど。
(俺はこう見えて、君のそういうところを評価しているんだよ)
俺はその夜、その衝動に任せてある“呟き”をした。
『俺がスタブルで作る最後の曲になるから、やれるだけやってみようと思うよ』
『俺は彼らの音楽に触れてみたいんだ』
それはどちらも間違いなく俺の本心だった。

* * *

依空は、安心したようにペットボトルの水を煽っていた。
「んでまー作ったはいいけど……細かいとこを直す必要はあるだろ?」
「そうだね、直そうと思えばいくらでも」
そんな風に返してはみたけれど、俺の胸はきっちりと依空の曲に掴まれていたのだ。
未熟だけれど、依空が詰め込まれたような、そんな曲。
彼の曲に創作意欲を刺激されるなんて、予想…… 通りといえば予想通りだった。悔しいことに。
(……分かっていたけれどね)
そう、こうなることは分かっていたのだ。むしろ心のどこかでこうなることを望んでいたところもあって。
だからこそ、あんな“呟き”をしたのだ。

手を伸ばしたから掴めたもの。
まずはひとつ。ゴールには、旅の終わりはまだ遠い。
「いくらでも直すところがあるって……それ、俺の作った部分が全部なくなるとかないよな?」
怯えたような依空の表情に、俺は笑った。
「……どうだろうね。依空次第かもしれないね」
「まじか。……まあ、曲がそれで良くなるってならそれもそれか~」
なんて、依空がらしくもなく気を抜いた表情をしていた。
(あ、これ、は……)
不思議なことにその表情を見て、俺の頭の中でメロディが弾けた。
俺の頭の中で流れたメロディを形にできるのは俺だけだ。
「なんてね、冗談だよ。完成が楽しみだな」
そう口にすると、依空はまた素直に顔を赤らめて。照れくさそうに笑うのだった。