【Short Story08】甘い匂いに誘われて

寒さも和らぎ、春の風が吹くようになった季節。
「あ、かんちゃん見つけた!」
写真部の紅一点が僕を視界にとらえた瞬間、彼女はこちらに向かって走ってくる。
「そんなに走って転ぶなよー」
「大丈夫大丈夫!」
彼女は自信を持って答えていたけれど、走ってくる彼女が僕の目前に迫った次の瞬間、僕たちの予想通り彼女の身体が傾いた。
「……っ!」
驚く彼女の表情に、身体が勝手に動いて手を差し伸べる。運よく彼女を受け止めると、ふわりと甘い匂いが香った。思い起こされる、いつかの記憶。
それはまだ僕がこの島を出る前、彼女たちが小学校の低学年の頃だっただろうか――。

* * *

僕の家に遊びに来た年下の幼なじみたちは、テレビに夢中になっていた。幼なじみたちの会話に耳を傾けていると、不意にプログラムが変わった。先ほどとは違うマスコットキャラクタ―が登場し、『”ありがとう”を伝えよう』という特集が始まる。
どうやら大切な人への感謝の伝え方を小さい子向けに紹介しているようだった。
視線をテレビから幼なじみたちに逸らすと、彼女はそのプログラムを興味津々と言った様子で見つめていた。

十分程度の特集を見終えると、テレビの前にいた彼女が俺のところに向かってくる。
「かんちゃんかんちゃん!」
「どうしたの?」
「わたしも大切な人にありがとうってつたえたい!」
「ありがとうを伝える、か……。具体的に何をすればいいんだろうね?」
キラキラした彼女の瞳を前に首を傾げれば、いつの間にやら彼女の後ろにいた昴が答える。
「さっきのテレビだと手紙をかいたり、料理とかおかしを作るって言ってたけど……」
「おれ、クッキー食べたい!」
「なちが食べたいものを聞いてるんじゃないよ」
彼女は何か考えごとでもしているのか、「うーん……」と唸り声をあげている。
「かんちゃんとすばるもクッキー好き?」
「そうだなあ。けっこう好きだと思う」
「かんちゃんは?」
「あんまり食べないけどたまに食べると美味しいよね」
「ほんとっ!?」
「ほんとほんと」
僕と昴の答えを聞いて、彼女の表情がパッと明るくなった。
「わたし、クッキー作りたい!」
「じゃあ時間もあるし、今から作ってみようか」
「それならおれも手伝おうかな」
「おれもおれも! サッカーボールのかたち作るー!」

こうして休日の昼下がり、四人でクッキー作りをすることとなった。

* * *

「で、クッキーってどうやって作るの?」
「かんちゃん作り方しらないのー?」
「お菓子、作ったことがないんだよ。調べてみようか」
携帯でレシピを検索してみると、作り方とレシピがまとめられているページがいくつかヒットする。
小麦粉、バター、砂糖、卵……。これなら買いに行かなくても、家にある材料ですみそうだ。
ひとまず材料を用意すると、キラキラした瞳をこちらに向けている幼なじみたちに視線をうつす。
「よーし、じゃあ作っていこうか。まずは……ボウルにバターを入れて、マヨネーズみたいになるまで混ぜまーす」
「はーい! 『ボウルにバター入れて、マヨネーズみたいになるまでまぜまーす』」
彼女は僕の言ったことを復唱しながら、クッキーを作り始めていく。
「夕月、つぎはつぎは?」
「波智はもうバターを混ぜ終わったんだね。って、まだ混ぜた方が良いんじゃない?」
「いいんだよ! もうこれはおわったの!」
「うーん、まあ大丈夫かな。それなら次はボウルに砂糖を入れて混ぜて……。それが終わったら溶いた卵を何回かに分けて入れて」
「そのつぎはー?」
「小麦粉を入れてくださーい」
「はーい!」
それはまるで先生と生徒の授業のようで、自然と笑みが零れていた。
「どれくらいまぜればいいのかなあ?」
ボウルの中をまぜながらも、彼女は興味深そうに波智のボウルを覗き込む。波智は勢いよく混ぜていたからか、小麦粉が彼女の顔目がけて飛んできた。次に顔を上げた彼女の頬は白い。
昴はと言えば、時折彼女の様子を見つつも器用にこなしている。
そんな幼なじみたちの作業の進捗を見ながら指示を出していると、あっという間に生地が出来上がる。
「生地ができたら、ちょっと寝かせようか」
「作ったのにねちゃうの?」
「美味しくなりますようにって生地にお願いする時間なんだよ」
「そっか!」
俺の言葉に、彼女は納得してしまったけれど、何となく撤回する気にはなれなかった。
「じゃあそのあいだに手紙かく!」
「おれも~!」
「じゃあおれもそうしようかな」
家にあったレターセットを数セットと色鉛筆を彼らに渡すと、黙々と手紙を書き始めた。
うんうんと唸っていたのも束の間で、さらさらと書き進めていく。ちらりと見ると、彼女は絵も書いているらしい。
幼なじみ三人が一つの机に向かって同じように手紙を書いている光景は微笑ましかった。

しばらくそうして手紙に向かっていたが、波智の集中が切れたようで、手紙を書き続けている彼女と昴に話しかけていた。
「何枚もかいてるけどダレにかいてるんだ?」
「ひみつー! ぜったい見ちゃダメだからね!」
「えー……ケチ」
彼女に断られ、波智は頬を膨らませていた。そんな彼女たちを横目に時計を見やると、ちょうど良い時間になっていた。
「いっぱい寝かせたから、そろそろ生地を起こして仕上げをしようか」
「うん!」

オーブンのスイッチを入れてから、クッキーの形を作っている三人に合流する。
「夕月のは星?」
「そうだよー。君はハート型で……波智はボール? 昴は色んな形を作ってるんだね?」
波智と彼女は手元の生地と格闘しているが、昴は満足のいく形のものが作れたらしい。昴の周りには星に月、花のような形のものもあった。
「これって決められなくて」
「それもいいんじゃないかな」
彼女と波智の成形が終わった生地を、クッキングシートを乗せた天板の上に、間隔を開けて乗せていく。
四人分の生地を乗せると、天板はいっぱいになった。
「これでやいたらクッキーになるんだよね」
「そうだよー。三人は熱いからちょっと離れててね」
オーブンの扉を開けて、天板を押し込んでスタートボタンを押す。この扉を次に開ける時には、クッキーになっているはずだ。
「じゃ、焼けるまで休憩だね」
三人は、最初はオーブンの前で膨らんでいく生地を見ながらそわそわしていていたけれど……。
「疲れたでしょ? できたら起こすから、少し寝ててもいいよ」
「んー……」
まぶたがくっついては慌てて離す仕草をしている三人は、俺の言葉に素直に頷く。机の脇にごろりと横になって、やがて三つの寝息が聞こえて来た。
穏やかな表情で眠っている幼なじみたちをみていると、胸の真ん中が暖かくなる。
(あ、ブランケットいるかな)
ふと思い立って机に手を付いて立ち上がると、パサリと軽い音がした。机に手を付いたはずみで、幼なじみたちが書いた手紙が落ちてしまったらしい。落ちた手紙を戻すために拾い上げると、彼女が書いていた文字が目に入る。
お母さんへ、お父さんへ、すばるへ、なっちゃんへ――。
彼女にとっての大切な人への“ありがとう”が沢山詰まったそれ。
中身まで見るつもりはなかったけれど、手に取った最後の一枚は「かんちゃんへ」と書かれていた。

“かんちゃんのえがおが大すき! いつもありがとう”

オーブンが軽い音を立てて、クッキーが焼きあがったことを知らせる。
漂ってきた甘い香りと、小さい幼なじみたちの寝息、そして手元の”ありがとう”が沢山詰まった手紙。
その暖かな光景に、思わず笑みが零れた。

* * *

(……あの時のクッキー形は少しいびつだったけど、美味しかったな)
彼女を腕の中に抱き留めながらいつかの思い出を噛みしめていると、彼女は訝し気な表情で僕を見ていた。
「かんちゃんどうしたの……って、あっ!!!!!」
何かに気付いたように、慌てて鞄の中を確認しだす。
「どうしたの?」
「あのね、かんちゃんにプレゼント!」
彼女の鞄の中から出てきたのは、可愛らしくラッピングされた袋。そして、漂ってきたのはいつかの甘い匂い。
「ありがとう、中身はクッキーかな?」
「なんで分かったの!?」
「ん~秘密、かな」
中身をぴたりと的中されたことに目を白黒させながらも、彼女はどこか得意顔。
「昴に手伝ってもらって作ったんだ。波智は味見係でね、理音君と星真君にラッピングしてもらったの! あとね、みんなで一緒に型抜きしたんだよ!」
話を聞いているだけで、その光景がありありと浮かんでくる。
「みんなで作ったクッキー、かんちゃんに食べてもらいたかったんだ! いつもありがとうね」
そう言いながら笑う彼女の周りには、照れ臭そうにしながらも優しい笑顔で溢れていた。

もうすぐ彼女たちも僕も、自分で決めたそれぞれの道を歩んでいく。
願わくばその未来でも、今と変わらずに優しい笑顔が周りに沢山ありますように。
そんな願いを抱きながら、僕は胸に灯った思いを伝えた。
「こちらこそありがとうね~」

テキスト:浅生柚子( @asaiyuz5