ピピピ、とけたたましい音が部屋に響く。
「ん~……」
16時ぴったりにセットしていたアラームが鳴った。
眠りが浅かったせいか、寝る体勢に入ってからも考え事をしていたからか……。原因は恐らく後者だろう。
(……起きるか)
まだ寝ていたい気持ちはあるが、今日は予定が詰まっている。『STOP』の文字が表示されたボタンをタッチすれば、わめいていたアラームは沈黙した。
「あー服、服……」
この時期は、服を着ていなくても寝られてありがたい。積みあがっている服の山の中から適当なものを引っ張り出せば、山はあっけなく崩れていった。そろそろまとめて掃除をする頃合いだろうか。
そう思いながら部屋を見回せば、随分と散らかっている。
空のペットボトル、タバコの空箱といった音楽と全く関係ないものもあれば、スコアや練習パッドにドラムスティック、趣味で買い集めたバンドのCDが積み重なっていた。
(っぶな)
そして足元には、一枚のCD。数日前のバイト先での飲み会で、同じようにバンドを組んでいる奴から貰ったものだった。
CDと言っても店で売られているようなパッケージングはされておらず、自分たちで音を入れ、編集をしたもの。もちろん、盤面やブックレットのデザインだって自分たちでやったはずだ。印刷位置が少しずれているといった失敗の後が見えるのは、ご愛嬌といったところだろうか。
CDやスコアなどに埋もれかけている部屋は、バンドマンらしいといえばバンドマンらしい部屋だろう。
今日だって朝までバイトをしてから帰ってきたのだ。いつもならばバイトの直前まで寝ているはずだったが、今日ばかりはそうも言っていられないワケがある。――それはとある人物に、ある頼み事をすること。とはいえ、その頼み事のせいで今日の眠りが浅かったわけだが。
俺は手に取ったCDを今一度まじまじと見つめた。
どんなに出来がつたなくたって、それはあいつらの夢のカケラとも呼べるもので。
(いつか、俺も……)
そんな不確定な、けれど絶対に掴むと決めた夢のカケラをテーブルの上に置いた。
こうしてふと冷静になると、考えてしまう。
(本当に、これでよかったのか?)
もう何度目か分からない問いかけを、俺は俺にする。返ってくる答えはその時々で違った。
これで良かったと肯定する俺もいたし、他にも手段はあっただろと咎める俺もいる。つまるところ……決めたのは俺のくせに未だに躊躇していたのだ。
(こんなにぐだぐだ考えるタイプだとは思ってなかったんだけどなー……)
思い切りは良い方だと思っていたが、そうでもなかったらしい。
俺はひとつため息を吐いて、雑念を振り払うようにして首を振る。このまま考え続けていたって、らちが明かない。
「とりあえず、行くか」
いまだひとつに定まりきらない心を抱えながらも、俺は家を出た。
* * *
待ち合わせはバイト先――ライブハウスの近くの喫茶店。
俺が喫茶店のドアを開けると、そいつは奥の席に座って優雅にお茶を飲んでいるところだった。相変わらず、こういった何でもないような仕草が絵になる奴だ。
「いやー、急に呼び出して悪かったな」
「悪いか悪くないかは君の相談次第、かな」
「だな」
いつも通りの有貴にいっそ安心すら覚えつつ、俺は向かいの席に座った。喫茶店で一番安いメニューであるコーヒーを注文してから、俺は早速本題に入るべく口を開いて……そして閉じる。
(何をどう話したもんか……)
有貴には呼び出した理由も、これからする相談の詳細も何も話していない。
急に黙った俺を、有貴は冷ややかともいえる目で見つめていた。……どこか見透かされているような気にもなるのは、有貴の持つ雰囲気によるものだろうか。
有貴の視線のそれは、今から俺が話すことが何なのかという興味と、それから事態を半歩引いて見つめている冷静さが半々。
「あー……」
「……」
「えっと、な」
有貴は無言で俺の言葉を待ち続ける。
何からどう話せば、有貴が頷いてくれる確率が高いのか。
こういった駆け引きは得意な方だと思っているし、メンバーの引き抜きや業者とのやり取りで危ない綱渡りは何度だってやってきた。だからこの頼み事だってそれと同じで、いつものようにやればいい。
頭の中に浮かんできたいくつもの方法のうち、俺の思う最適解を選択するだけ。
それなのに今の俺の頭の中には、何の策も浮かんでこない。まるで俺が俺じゃないみたいだった。
「……あー、実は今回有貴を呼び出したのは、ちょっとした……いやちょっとしたってわけでもないな。結構重要なことで……まあそういう感じで頼みごとがあってな」
仕方がないから、頭に浮かんできた言葉をそのまま口に出す。そうすることしか、今の俺にはできなかったからだ。
「ふうん、頼みごとね。それで、何?」
「ずっと前から思ってたことだったんだけど……」
こんなことを誰かに頼むのは初めてだった。口に出したらもう、後戻りはできない。
「……えーと、な」
戸惑いに、恐れ、不安といった感情が俺の身体の中を巡っていく。
不確定な要素は限りなく排除して、その上で一番”勝ち”の確立が高い選択をしてきた俺にとって、この感覚は随分と久しぶりで。できることなら全て安全なところで見ていたかったが、そうも言っていられなくなった。
俺の後ろにもう道はなく、かといってここに留まり続けることもできず。前に進むしか、一歩を踏み出すことしかできない状況なのだ。
「……作詞の仕方を、俺に、教えて欲しい」
口に出した言葉は短いくせに、信じられないほど重たい。けれどこれは俺のまぎれもない本心で。不思議なことにそれを口に出した瞬間、ふっと心が軽くなったのを感じた。
そしてティーカップを片手に俺の言葉を聞いた有貴は、動きを止めて驚いた表情をしていた。
スタブルの楽曲制作を担っていた有貴がその手を止めたのは、どれ程前のことだっただろうか。
もちろん最初から有貴が楽曲制作をやめることは、「いつか訪れるかも知れない危機」として頭の中には入れていたはずだった。けれどその危機が訪れる瞬間は、有貴の心がスタブルから離れた瞬間だと思っていた。
仮にそうなったとしても、俺の頭の中には有貴をスタブルに繋ぎとめるための策はいくらでも浮かんでいた。その内のどれかを使えばいいと思っていたのだ。
(ま、最近の有貴を見る限り、そうなるとは思ってなかったけどな)
だが、有貴は変わった。
俺が知る有貴は、俺たちの感情の先回りをして、欲しい言葉を欲しいときにくれるような……そんな奴だった。
(それが心地よかったのも事実だけど)
俺を始めとして、メンバー全員が頼っていた部分も大きかった。
有貴のその在り方は、才能を持つが故の孤独から、人を救う。特にそれが顕著だったのは新と叶亜だろうか。有貴と接することで新や叶亜はもちろん、亜蘭だって何かしらの影響を受けて変わったのだろう。
けれど同時に、俺には別の側面があることも予感していた。ある日いきなりスタブル辞めてしまいような、そんな予感。
事実初めて会った時は、心の隙間を埋めるような……何かを探す迷子のような目をしていたのだ。けれどスタブルでベースを触り共に時間を過ごしていく中で、何かが変わっていったらしい。
確実に有貴は、スタブルに心の一部を置き始めていたのだ。
(有貴は見つけた、のかもな)
ずっとずっと探し続けていたものを、スタブルで見つけたのかもしれない。それが何なのか、そしてどうやって見つけたのか、俺には分からなかったし興味もなかったけれど。
探し物を見つけた有貴が、今スタブルに対して持っているそれ。それはどんな形をしているだろう。
(執着か、愛着か……)
俺としてはどちらでも良かったのだ。有貴がスタブルに居続けてくれるのであれば。
だからこそこの現状にすっかり安心しきっていたし、想定していなかったのだ。
有貴の心がスタブルから離れるという理由以外で、有貴が楽曲制作の手を止めることがあるなんて。
そうして有貴の手が止まって、これまでスタブルの音楽はどれ程有貴に依存してきたのかが浮き彫りになったわけだが……。
曲がなければバンドが前に進んでいくことはできない。それはつまり、俺の夢にも近づけないことを示していた。
頭の片隅で、有貴を丸め込んで再び楽曲を制作してくれるようにすることも考えた。昔の俺なら、そうしていたかもしれない。
だけど。
(さながら挑戦状、ってとこか?)
楽曲制作の手を止めたとき、有貴の顔に浮かんでいたのは不敵な笑みだった。まるで俺を試すようなそれは、やれるものならやってみろという有貴なりの挑戦状かも知れない。
(なら、やるしかねえだろ)
……有貴のことだから、俺が乗ることも分かっていてあんな顔をしたのかも知れない。
有貴がスタブルにいて変わったように、俺にも変わった部分があるのかも知れない。……自分ではさっぱりわからないけれど。
(曲作り、か)
ずっと曲を作りたいと思ってはいたのだ。けれど俺の曲が通用するのか、それから受け入れて貰えるのか。
情けないことに自信がなかった。決心できずに、一歩を踏み出せずにいたのだ。
俺をそうした理由は、決まりきっている。思い出したのは、もう何年も前のある日のことだった。懐かしくも苦しい、あの思い出。
俺はあの日から、人に弱みを見せたり、心を晒すようなことはやめた。
(……弱さなんて、見せてたまるか)
見せた先にあるものを、俺は知っているのだから。もう二度とごめんだと思ったのだ。
(付け込まれるのも裏切られるのも、騙されるのだって……)
されるくらいなら、する方がいい。奪われるくらいなら奪う方がいい。
例えそれで人が傷ついたとしても、俺は傷つかないでいられるのだから。
けれど曲を作り、その曲に言葉を添えるとなれば、否が応でも心を晒す必要が出てくる。もちろん、それを晒すことに抵抗はある。だが、それ以上に俺が知りたいのは、そのやり方だ。心の晒し方を、俺は知りたいのだ。
「そう言うわけなんだけど……どうだ?」
値踏みするように俺をじっと見つめ続ける有貴に、俺はそう聞き返す。
この答え次第では、俺は、また。
らしくもなく膨れ上がる不安を飲み込むように、コーヒーを手に取る。有貴からの答えはあっさりと返ってきた。
こんなに悩んだのがいっそばかばかしいと思えるほどだ。
「いいよ」
「まじ?」
「俺が依空の頼みを断ると思う?」
どこか楽し気に有貴は笑った。……俺の新たな一面を見たとでも思っているのかもしれない。
「いや、思ってないけど。……はぁ~」
衝動的にカップに入っていたコーヒーを飲み干す。有貴はそんな俺を見てくすくすと笑った。
断られるとは思っていなくても緊張はするし、もしもに備えたことを考えてしまうのだ。
まずは、ここから。まだちゃんと”俺”を晒せるかは分からないけれど、そうすると決めたのだ。
(やってみるしかない、か)
賽は投げられた。進む道はひとつしかない。
俺はここから、もう1度始めてみることにしたのだ。
* * *
喫茶店を出てバイト先までの道を歩いていると、かつての友の声がよみがえってくる。
『お前、曲作るセンスはないけど勢いだけはあるよな。そんで暑苦しい。そこが好きだけど』
そう言ってあいつは嬉しそうに笑っていた。
あのときあいつと見ていた夢を、今は違う奴らと見ている。
そいつらと一緒に目指したい夢があるから、怖くても、逃げ出したくなってもやっている。情けなくて弱くて、惨めで無様な姿を晒した俺を……きっとあいつらは笑わないから。
大きく深呼吸をして、俺はバイト先――夢を始める場所のドアをくぐった。