【BACKSTAGE Story】A tiny ripple of heart

Side Aritaka

馴染みのジャズライブバーの裏手に回れば、扉には「関係者専用」のプレートが貼られていた。
扉を開けば、そこには電気の付いていない廊下が広がっている。このジャズライブバーで演奏するのは数度目なので、もう勝手は分かっている。廊下の端に積まれた機材を避けて楽屋の扉に貼られた「シャンス・カルテット様」と書かれた紙をちらりと見た。
(さて、と……)
楽屋の扉を開けば、その光の眩しさに咄嗟に目を細めた。

「よお、ありのすけ。やっと来たか」
いつものように俺をおかしな愛称で呼ぶベースを担当している向坂南里(さきさか なんり)。
ベースといっても、俺がスタブルで担当しているようなエレキベースではなく、ウッドベースだ。
ジャズオタクと言っても過言ではない南里は、ライブで目立つピアノやドラムを目指していたらしいけど、なかなか上達せず早々に向いていないと諦め、地味だけど重宝されるウッドベースに手を出したと言っていた。
未だにピアノやドラムに憧れているのに、難易度の高い奏法だといわれるアルコ奏法までできてしまうのだから、ウッドベースとの相性がいいのだと思う。
「おはよう、南里」
挨拶を返すと、南里は人好きする笑顔で「ああ、おはよーさん。今日も楽しもうな」と言って、服を脱ぎだした。
「弾真、おはよう」
楽屋の片隅にこじんまりと座っているドラム担当の和住弾真(わずみはずま)
に声をかけると、彼は読んでいた雑誌から視線を外し、俺をちらりと見ると「うっす」と言ってまた雑誌に視線を戻した。
「わっさんっていつもエロ本ばっかり読んでるよな。わっさんの本体はエロで、エロが服着てドラム叩いてるって思ってるけど、ありのすけはどう思う?」
「ふふっ、男ならみんなそうなんじゃないの?」
「ありのすけにそれ言われると……なんかドキドキする」
「なんで?」
「はぁ……これだよ。男を惑わすくらいの色気を持っているのに無自覚なんだもんな~。まあ、実際ありのすけの言う通りだけど~、わっさんのはなんか違うんだよ」
南里はくるくる表情を変えながら、ぽんぽんと言葉を吐き出していくから、話を聞いているだけで楽しい。
「ねぇ、わっさん、そんなにエロ本が好きなの?」
慌ただしく着替えながら南里が、一向に着替える気配がない弾真に声をかける。
「はあ? 男なら当然だろ」
「だとしてもイマドキわざわざエロ本を読んでるヤツいないだろ~。スマホで画像見るとかさ」
「雑誌の方が趣があっていいだろうが」
「趣って……エロ本に何求めてんのこの人」
いつもどこか噛み合っていないようで噛み合っている会話を重ねている南里と弾真。
「俺としては、ライブ前にそんな本を読んでいる弾真がおかしくて仕方ないよ」
「そうか? なんだったら有貴も見るか?」
まっすぐに差し出された雑誌に、戸惑ってしまう。
「ううん、遠慮しておくよ」
「バーカ、ありのすけはお前と違って本で見なくても生で見られるからいらないんだよ。オレもだけどさ~」
「それは悪かったな」
「そういう意味で遠慮したわけじゃないんだけどね」
彼らの会話を聞きながら、胸元のボタンを外す。
(……早く着替えてしまおう)
衣装に袖を通していると唐突に楽屋の扉が開いた。誰が入って来たかなんて、気配でわかる。それくらい、彼は存在感があるから。
「有貴。来てたのか」
「少し前にね」
母の友人の息子でもあり、俺の幼なじみでもある、羽鳥壱夜(はとりいちや)は、ピアノを担当し、同時に作詞作曲をこなすバンドの要だ。
よくバンドの顔はヴォーカルだなんていうけど、シャンス・カルテットの顔は間違いなく俺ではなく、彼だ。
「君こそどこに行っていたの? ライブ前に楽屋にいないなんて珍しいじゃない」
「いろいろとな。それより弾真、早く着替えろ」
「うっす」
バンドのリーダーでもある壱夜は、一瞬で俺達の空気を自由自在に変えてしまう。ライブ前や練習の時は、張り詰めた空気に。ライブ後は、優しく緩んだ空気に。メンバー同士が険悪になった時は、やわらかい空気に。
彼が纏う空気と発する言葉で、メンバーの気持ちを上書きし、場合によっては書き換える。
「メンバーも揃ったことだし、着替え終わったら今日の流れとセットリストの確認するからな。さっさと準備をしろ」
壱夜の言葉に、俺達は急いで着替え、彼が広げた紙に視線を走らせた。
「最初にMCなしでいきなり演奏から始める。有貴のアカペラから入るからな」
「わかったよ」
「掴みが肝心だから、ミスなんかするなよ。で、一曲目は……」

その後、15分くらいで今日のセットリストの確認を終え、メンバーそれぞれにメイクを施すと、後は出番を待つだけだ。
と、そのタイミングでスマホが振動し、メッセージが届いたのを伝えてくれる。
すぐに俺はメッセージを確認するために画面をタップした。
『とあと見に行く』
受信したメッセージにはそんな言葉が書かれていた。『ありがとう。待っているよ』とメッセージを打ち、送信していると、とんとんと肩を叩かれる。
(南里かな……?)
そう思いながら振り返れば、そこには少し困惑したような表情の壱夜がいた。
「ライブが終わったら話がある」
「……」
彼はいつも自信に満ち溢れている男で、自分がすることに迷いはなく、ただ確信があるだけだ。
だからこそ、こんな表情をする壱夜をほとんど見たことがなかった。
(珍しいこともあるものだね)
そう思わずにはいられない。壱夜のしようとしている話は、よほど大事な話なのだろうと察しがついた。
「分かった。いいよ」
そう答えると、緩やかに表情を崩し「ありがとな」と言って彼は背を向けた。
なんとなく感じた違和感をまき散らすように、俺は息を吐き出す。
壱夜を前にすると、いつも無意識に緊張している。それは幼い頃から、ずっと変わらない――。

* * *

ステージの中心で、ライトの光を一身に浴びる。
ダイナミックな演奏をするピアノと、華やかでありながらも力強いドラム、そして安心感のあるウッドベース。そこに俺の歌声が加わって、俺たちのジャズバンド――シャンス・カルテットの音が出来上がっていた。客観的に見て、音のバランスはそれなりに良いと思えた。
観客の多くが視線を向けるのは、やはりヴォーカルで、多くの視線が俺の身体に突き刺さっているのがよく分かった。
多くの人に注目されたからと言って、今更緊張はしなかったけれど。
「ありがとう。次の曲は……」
MCでは、予定していた通りのことを話す。俺は俺に望まれ、期待されたことを淡々とこなしていくだけだ。
――歌を歌うのは嫌いじゃない。
けれど誰かの想いを音楽に乗せて歌うこと。心を込めるだとか、想いを伝えるだとか……そういうことは、俺には分からない。
歌は歌でしかないし、音は音でしかない。
(……新は、いつもどんな気持ちで歌っているんだろう)
マイクに音を吐きながらそんなことを考えていると、客席に新と叶亜の姿を見つける。前から四列目の真ん中辺りに座っているふたりは、俺を、そして俺たちを見つめていた。
いつもののんびりとした姿や歌っている姿とはまた違い、借りてきた猫のような新。それから、普段ほとんど見せようとしない大人びた表情で席に座っている叶亜。
新も叶亜も、一緒にいる時にはあまり見ない姿だった。
(なんだか変な気分だね)
不思議とその様子がおかしくなって、笑ってしまいそうになる。とは言えここはステージの上だ。せりあがってきた笑いを、俺は歌でそっとやり過ごした。

俺は壱夜に誘われて、今ここで歌っている。
けれど、俺は知っている。俺は妹の代替品でしかないということを。
彼女と近い声を出せる俺の歌声を、壱夜は欲しがったのだ。
俺の性別が男である以上、いくら血が繋がっていても彼女のような美しく高い声は出せないから、残念ながら彼の理想には遠く及ばない。
望まれれば何でも出来た俺が、唯一望まれても出来なかった事だ。
昔の習性が抜けず、壱夜の言葉を言われるがままに受け入れることしかできない俺が、誘いを断れなかったあの日から今もこうして歌っているのは、それなりに楽しかったからなのかもしれない。
だけど、今では別の楽しみを見つけてしまった。
サビの部分で、ピアノの高音が俺の声に重なる。
と、その瞬間どこかからパリンとグラスが割れる音が響いた。
(ん……?)
客席の様子を見る限り、誰かが手を滑らせたのだろう。幸い服が濡れたと騒ぎ出す人はいない。
けれどグラスが割れる音ですら、ピアノの高音に綺麗に絡んで。まるで演出のひとつのようにも感じられるほど、壱夜の演奏はこの場を飲み込んでいたのだ。
それほど鮮やかだったのに、俺はくっと眉が寄るのを感じた。
(……嫌な感覚だ)
言葉にはできない、不思議な感覚。
演奏がうまくいっていること、演奏の途中でグラスが割れたこと、新と叶亜が心地よさそうに演奏を聞いていること、そしてどこかから感じる視線。
それらが全て集まって、嫌な予感はできていた。
きっとその予感は、人によって受け取り方は違うだろう。
そんな風に気がそぞろになっていることに気付いたのか、ひと際強く壱夜のピアノが響く。ドラムの弾真も、ウッドベースの南里も変わらずに演奏を続けるだけ。
ピアノの音に引っ張られるように壱夜に視線を投げれば、彼は強い眼差しで俺を見つめていた。
(……)
その瞳を見て、とっさに再び客席に視線を向けた。逃げたわけではない。
けれどそれを見続ける気にはなれなかった。
彼の瞳に潜む……強い主張、強い意志。
その瞳の強さが、俺には羨ましくもあって――そしてすごく苦手だったよ。

* * *

出番を終え、スマホを手にするとメッセージがひとつ。
『楽屋に向かうね』
叶亜からそんなメッセージを貰い、見にきてくれた新、叶亜と話をしようと思い、俺は湧き上がる高揚感を胸に、急いで楽屋を出ると――視線の先に、壱夜を見つける。
「有貴、ちょうどよかった」
その隣にはスーツを来た人物がいて。
「さっき言ってた、『話がある』って言ってただろ。あれ、会わせたい人がいるってことだったんだ。それで……」
壱夜は「こちら」とスーツの人物を俺に紹介し、続けてスーツの人物に俺を紹介した。
「彼は色葉有貴。うちのバンドのヴォーカルです。まあ、俺達の演奏を見てくださっていたなら、もうご存知ですよね。とてもいい声で歌うんですよ」
本心ですらないのに、すらすらと俺を褒める言葉を綺麗に並べていく彼の言葉を遮るように「色葉有貴です。よろしくお願いします」と軽く会釈して顔を上げると、スーツの人物の肩越しに、俺は新と叶亜の姿を見つけた。
「ヴォーカルも紹介できたことですし、残りのメンバーも紹介させていただこうかな。そういうことで、ここから先は楽屋で話しましょう。有貴、あいつらは中にいるよな?」
「ああ…」
「それは、よかった。探す手間と時間がかからなくて済んだな。……ということです。では、どうぞ」
せめて一声かけてからと思っていたけれど。
「有貴、行くぞ」
楽屋のドアノブに伸ばした手とは反対の手で、まるで自分の所有物に対してそうするように壱夜は俺の腕を掴む。
有無を言わさない彼の様子に、俺は引っ張られるようにして楽屋に戻ることになってしまった。
振り向きざまに見た新と叶亜の驚いたような表情は、俺の脳裏に焼き付いた。

* * *

話し合いを兼ねた軽い打ち上げも終わり、俺は家に着くなり気が緩んだのを感じた。
あの紹介があってから、どこかで緊張のような興奮のような、そんな感覚が俺の身体の中に居座っている。
(なんだか少しだけ……疲れたな)
シャワーを浴びて、ベッドに横になる。途中で充電が切れていたスマホを確認すると、いくつかのメッセージが入っていた。
(叶亜と……新からか)
叶亜からは「今日はお疲れ様。すごくよかったよ。周りのお客さんも喜んでいて、新もだけど歌声で人の心を動かせるのはとても素晴らしい事だと思うんだ」という文章から始まる感想と、明日の連絡。そして。
『何かあったら、話を聞くよ。おやすみ』
そんな察しのいいメッセージが届いていた。
対して新からは、俺の睡眠を心配するような文言。叶亜と比べるとメッセージは短かったけれど、きっと人の機微に聡い新のことだ。このメッセージには、文字量以上の気持ちを込めてくれているのだろう。
(こっちでも……)
ふと開いたSNSでも、新は俺の心配をしてくれていた。
『夜がありたかに優しいといいな』
そんな文字を表示するスマホをぐっと握りしめる。
スタブルのメンバーとして活動するようになってから、暗く冷たい俺の夜は、随分と明るく優しいものになった。願いを言葉にして、夜に溶かす。
いつもなら熱が欲しいと思うのに。不思議と今欲しているのは、俺を溶かすような熱でも温もりでもなく、ただただ優しい夜だった。
考えないといけないことはたくさんある。だけど今だけは。
新がくれた優しい夜に包まれて眠ってしまおう。
そう思いながら、俺はそっと目を閉じた。