【BACKSTAGE Story】Beyond the Milky Way

人は誰もがひとりで哀しい夜を過ごしている。
星に祈れば寂しい日々を光り照らしてくれる。

そんな風に歌っていた曲があったのを思い出す。ふと空を見上げれば鉛色の雲は依然として厚く、さらに暗くなり始めていた。
そもそも星に願いを、なんて最初に言いだしたのは誰なのだろう。地上では竹に沢山の短冊を吊るして、織姫と彦星に願い事を託す。
そうして願いを託された織姫と彦星は一年に一度の逢瀬を楽しんで、翌日にはまた元いた場所に戻るという。きっと別れの直前には、次の七夕にまた会う約束をしているのだろう。
七夕は織姫と彦星が一年に一度会えるそんなトクベツな日だ。そんな日に僕を待っているのは、広義の意味では織姫なのかもしれない。
また会わなければいけない、という意味で。僕の“織姫”には、婚約者という名札が貼られている。
「……はあ」
暗くなっていく空はまるで僕の心を映しているようで、ついため息が漏れた。
”織姫”は、家とそれから会社のために伴侶にすると決めた人だった。

ゆったりと流れるクラシックをバックに著名な絵画を見て、一通り見終わった後は美術館近くのカフェに足を運んで。次々と波紋が浮かび上がる池を眺めながら今日は雨になったねとか、さっきの絵はよかっただとかさしあたりのない話をした。
その後は丁度いい時間になったところで、予約していたフレンチのレストランへと向かう。名のある料理人が作ったというコース料理は、確かに美味しかった。
そして最後は彼女の家まで送ってあげて。ケンゼン極まりない、決められた通りのデートコースをなぞっていった。そこに僕の感情は存在しない。
十九時四十五分。彼女の家の前で、僕は車を停めた。
「今日は楽しかったよ。次は……また連絡するね」
僕はにこりと笑って。彼女の何かを期待する眼差しには、あえて気付かないふりをした。
「それじゃあ、またね」
その言葉に彼女は諦めたような表情を浮かべて、やがて「はい」と頷いた。
(それもそうか)
家柄は釣書を渡してきた祖父が、そして僕は僕の決めたことに何も言わずに頷くような人を選んだのだから。――そういう意味で、僕の人を見る目は間違っていなかったわけだ。
いつもと同じ言葉、いつもと同じパタンと車のドアが閉まる音。バックミラー越しに健気にも手を振り続けているのもいつもと同じだった。
「……ごめんね」
呟いた言葉は車内に虚しく広がっていく。
何年か前に誕生日の両親から贈られたこの車は、随分と良いものらしい。数えるほどしか乗っていないけれど、外装には傷ひとつなく揺れもほとんどない。おまけに燃費もいいらしい。
(だけど、どれだけ乗車して負担が少なくたって……)
こんな高級で良い車よりも、例えば気心の知れた仲間とぎゅうぎゅうになって乗るバンの方がずっとずっと乗り心地がいいことを、僕は知ってしまっている。
だからなおさら虚しさを感じるのだろう、とむりやり自分を納得させた。
赤信号で止まっていた前の車が動き出したので、そのあとを真似るように僕も右折する。なぜかこのまま家に帰る気にもなれず、気の向くままぼんやりと夜の街を流していると唐突にスマホが鳴った。
瞬時にカーナビの画面が切り替わって、ディスプレイに電話を掛けてきた相手の名前が表示される。その名前に、僕は思わず笑ってしまった。
「ほんと、相変わらずタイミングいいよね」
ディスプレイの通話ボタンをタッチするまでもなく分かる。この時間帯にかかってくる電話なら、呑みの誘いか足になって欲しいかのどちらかだろう。通話ボタンをタッチしながら僕は問いかける。
「はいはい、どこに行けばいいの? 悪いけど車だから呑みは無理だからね」
相手から告げられた場所は、渋滞に捕まらなければ二十分程で着くであろう場所。
「駅前ね、分かった。ちょっと待ってて」
通話を終了させると、僕はハンドルを切った。

* * *

「いや~悪い悪い!」
きっかり二十分後、通話相手は悪びれていない素振りで、遠慮なく助手席に乗り込んだ。つい数十分前まで、その席には別の人物が座っていたなんて知りもしないのだろう。
バッグに入っていたタオルを渡せば、「さんきゅ」と言いながら濡れた肩を拭いていた。
「叶亜がいて助かったー」
「そう思うならちゃんと態度で示してよね、依空」
僕に電話を掛けてきたのは、想像通りといえば想像通り、依空だった。
「丁度持ち合わせがなくてさ~」
「持ち合わせがない、ってね……」
手持ちがなく、帰れなくなってしまったらしい。電車賃すらなくて身動きが取れない、なんてことはスタブルを始めてすぐ以来だろうか。
「今回は僕が動けたからいいものの……もし僕が捕まらなかったどうしてたの? まさか歩いて移動するわけにもいかないでしょ」
「でもお前なら迎えに来てくれるだろ?」
「あのねえ……もうちょっと先を見越してなんとかできないの?」
呆れたように――というか事実呆れていたのだけれど、そんな僕を見ても依空はケラケラと笑うばかり。確かに、なんだかんだと依空を迎えに行っていただろうけど。
「っていうか、なんでこんなところにいたの?」
「ちょっと用事があってな。丁度七夕だし、織姫と会ってたってことで」
「……ふーん。織姫、ね」
「あーでも雨だから会えないんだっけ?」
「七夕の雨は、織姫と彦星は別れたくないって流してる涙だよ。確か催涙雨って言ったかな?」
「へー、そんなのがあったのか」
「うん。だから雨でも会えてるはず」
「っていうか別れたくないからって泣くのか。情熱的だなー」
「本当にね」
依空の口にした“織姫”が本当に織姫なのかは知らないけれど、依空のことだからきっと……と推測はしながらも口に出して聞くようなことはしなかった。
「あー……そいやここ禁煙?」
依空はぼんやりと外の景色を見つめていたと思ったら、手元のボタンを操作して薄く窓を開ける。
「さっきまではね」
さっきまではそこに婚約者がいたから、禁煙。
車内に落ちる一瞬の沈黙。それだけで依空は何かを察したらしく、おもむろに尻ポケットを探った。
「じゃあ、もういいわけだ」
僕の返事を聞かずに、依空はライターで手元のタバコに火をつける。ゆらりと車内に煙が揺らめいて、僕は無言でさらに窓を開けた。禁煙じゃないけれど、喫煙所にしたつもりはない。
「……で、家まで送ればいいの?」
依空からの返事はない。横目でちらりと依空を眺めれば、何かに思いを馳せるようにして、まっすぐに夜の街に視線を向けていた。
僕はその目を知っている。
(家に帰りたくない、目)
依空が家に帰る気がないなら。僕は頭の中に入っていた目的地を、依空の家からとある場所へと変更する。どうせ依空だ、“織姫”と違って、帰りが少し遅くなったって、濡れてしまっても構わない。
なによりもそれ以上に、僕もまっすぐ家に帰る気分じゃなかったから。
少しスピードを上げて車を走らせる。駅前の大通りから車線が減るにつれて、人通りも少なくなる。次第に路面状態も悪くなっていった。
依空はこれがどこに向かっているのか知らないくせに、行き先を聞いては来ない。ただタバコを口にして、時折煙を吐き出しながら窓の外を見つめているばかりだった。

* * *

それから二十分ほど走ったところで僕は車を停めた。雨は運良く止んでいたけれど、雲は厚いからまだ降るだろう。小一時間ぶりに車外に出たのでぐっと伸びをしていると、遅れて依空が助手席から降りてくる。
「おー、こんなとこあったんだな」
依空の足取りは随分と軽い。
「僕も頻繁に来るわけじゃないんだけどね。たまーに見たくなるんだ」
「なるほどなー」
街外れにある高台は、駅前の商業施設を思えば綺麗に整備された観光スポット……と呼ぶには少し寂しいだろう。けれどぼんやりと夜景を眺めるには十分な、僕のとっておきの場所だった。
案の定、高台には僕たち以外は誰にもいないようだった。
「今、織姫と彦星は熱い夜をすごしてるんだろうな~」
「……かもね」
夜景を眺めながら、依空は僕の隣で笑った。
熱い夜を過ごすふたりと、熱い夜を過ごさずに逃げて来てしまったふたり。
同じ空に思いを馳せているのに、こうも境遇が違うなんて不思議なものだ。夜景から少し視線をあげて、空を見つめる。ひときわ輝く星を見つけた瞬間、鼻歌が聞こえて来た。今までに聞いたことのないメロディだ。
こんな場所で僕以外に鼻歌を歌っているのなんて一人しかいなくて。
「それって……もしかして」
僕の言葉に依空からの言葉はなかったけれど、代わりに視線が返ってくる。
何かを伝えるような真っすぐな瞳に、僕ははっと息を飲んだ。
(本気の依空だ)
僕ですら数えるほどしか見たことのないその表情。いつもどこかに遊びや余裕のある空気をまとい、口の端に浮かべているニヤニヤとした笑みも、今はどこにも見つからない。
依空はそのまま鼻歌を続けて口ずさんだ。
「♪~」
まだ歌詞のない歌。技術や技巧はまだ未熟で、依空の内側から湧き上がる思いを全て載せきれているとは言いがたい。
そのメロディを聞きながら、僕はさっきまで会っていた“織姫”――婚約者の顔を思い出していた。
父を、そして祖父を喜ばせるような相手と結婚をして、家の後を継ぐ。それが僕が僕として生きてきた意味だと思ってきたし、みんなのためになるのだと思っていた。僕のした選択に何も違和感はなかったし、受け入れていた。これが正しいのだと。
そのことを亜蘭に指摘された時ですら、心が動くことはなかったのに。
(……なんでだろうね)
技術も技巧もまだまだ未熟な依空の鼻歌を聞いていると、僕の胸を打つものが、確かにそこにはあった。
それは目の前に敷かれたレールを、すべてをなかったことにしてしまいたいという衝動で。その衝動を抑えるために、胸を押さえてぐっと拳を握りこんだ。そうでもしないと、本当にその衝動に身を任せてしまいそうになる。
「……って感じで、まだ未完成だけど。どうだ?」
照れくさそうに笑いながら聞く依空に、僕は月並みな言葉しか返せなかった。
「よかった。すごく、よかったよ。完成が楽しみ」
僕の言葉に依空は「そっか」と小さく笑って。
「ま、頑張ってみるわ」
依空は曇り空の元で小さく呟いた。

一年に一度、どうしても会いたいという気持ちはどこから来るんだろう。そして別れたくないと流す涙に何の意味があるのだろう。
僕はいまだに彦星の気持ちが分からないでいる。だれかの気持ちに寄り添うのが上手な新に聞けば、何か得るものがあるのだろうか。
そう考えてすぐに否定した。
(義務……じゃないのかな)
空を見ていても、そこに答えは見つからない。ぼんやりと夜景を見上げていると、不意に依空が口を開いた。
「いつかお前にも……織姫ができるといいな」
「なにそれ」
依空らしくない言葉に、思わず吹き出してしまった。じっと依空を見つめれば、依空は怪訝な表情をして。
いつもなら「悪いもん食べたとかそういうんじゃなからなー」なんて言葉が返ってくるのだろう。けれど、今日ばかりは違った。
「……なんだよ」
「いや、なんでもないよ」
再び空に視線を戻せば、鉛色の雲の隙間からほんのすこしだけ夜空が見える。僕は視線で雲の上に三角形を描いた。
(きっとあの辺りに織姫と彦星、それから白鳥があって……)
依空が僕に、いつか僕に織姫ができるといいと思っているように。僕もまたそれを君に望んでいるとは、思ってはいても言わずにおくよ。