【BACKSTAGE Story】さよならエチュードVol.02

Side Aran

「みんな――」
スタジオ内の空気がぴんと張り詰めていく。周りが、言葉の続きを見守っていた。
「ごめんなさい」
予想通りの答えが返ってくる。
「……僕にはスタブルを続けることはできない」
最初から期待なんてしてなかった。
……それでも、心のどこかで思ってた。もしかしたら、いつも心を隠すように作り物の笑顔を貼り付けているこいつにも、何か響くものがあるんじゃないかって。
そう、信じていたんだ。
こいつの言葉を聞いた時、衝動にも似た気持ちが沸き上がってくるのが分かった。

* * *

「ねぇ、亜蘭」
「なんだよ」
「曲作り、手伝ってくれない?」
「……はあ?」
有貴にそう言われたときは、驚いた。
こいつはいつも依空に頼まれて一人で作業をし、いつの間にか曲を作ってオレらの前に持ってくる。そして、その曲を聴く度に、いつかは作曲をしたいと思っているオレは打ちのめされるんだ。
オレはまだまだなんだ、って。
勿論、だからって諦めるつもりはないが。
いつか、作曲とそれ以外にも沢山の技術を盗んでやろうと思ってたけど、いつだって有貴には隙が無い。それなのに、今回に限って向こうから声を掛けて来やがった。驚かない訳がない。
「どうしたんだよ、いきなり」
「ちょっとね。悪あがきをしてみようと思うんだ」
悪あがきの意味は、言われなくても分かる。
「……悪あがき、な」
こいつはいつも、心はどこかに置いたままオレらの前で静かに微笑んでいる。それがなんだか気持ち悪くて、こいつの事が苦手だ。だけど、今オレの前で微笑んでいる瞳の中には、光が宿っているように感じた。初めて見つけた、有貴の心のような気がした。
「オレで、ほんとに良いのかよ?」
「君じゃないとダメなんだ」
オレは戸惑いながらも、密かに嬉しく思っている自分に気づいて、眉間に皺を寄せた。
「分かった」
オレに、頷く以外の選択肢はない。『オレじゃないとダメ』なんて耳障りの良い言葉に、こいつに絆される女の気持ちが少しだけ分かるような気がしたのが悔しかった。

それからしばらくして、有貴から連絡があった。デモを作ったからスタジオに来てくれないかな、という内容に、短く返事をするとすぐに家を出た。オレに予定があることなんてお構いなしに呼び出してくるあたり断られると思っていないんだろう。腹いせに悪態をつきたくなったけど、そんな時間すら惜しく感じた。
スタジオに着くなり「早く聴かせろ」と唾を吐くように言うと、「そう言うと思ったよ」と薄く微笑み、有貴は曲を流しだした。電子音だけで構成されたその曲は、淡々としているのにどこか熱いものが潜んでいて。一度聴いただけで、心をぐっと揺さぶられた。
音楽が自分の中に染み渡っていく感覚は、生きる喜びみたいなのを思い出させる。生まれた時から音楽がオレのそばにはあって、そいつらとずっと一緒に生きてきた。音楽の中でしか生きられないし、生きたくない。
何度か繰り返した後、微かに光を宿した瞳の有貴が「この曲にギターを入れるとしたら、君はどう入れる?」と微笑んだ。
試すようなその物言いに無性に腹立たしさを感じるけど、挑発に乗ってやっても良いと思うくらいギターを弾きたいという衝動が襲ってきた。
「ちょっと待ってろ」
そう吐き捨てて、持ってきていた相棒を手にした。
叶亜から見たら俺はまだまだ未熟で、きっと力だってないんだろう。
だけど、オレだってお前と同じように鈴音の名前を持ってる。この意味を、あいつはこれからも見ない振りをし続けるんだろうか。
お前なんかに手を引いてもらわなくても、オレはこの手でしあわせを掴めるのに。お前なんかいなくても自分の意志を貫けるから大丈夫なのに。お前なんかが……いたから、それが出来るようになったのに。
それにあの時みたいに、もう守ってもらわなくても大丈夫だって。オレにだって出来る事はあるって。だからオレを甘く見るなよって。
そうやって何度も何度も叫んでるのに、あいつにはこれっぽっちも届いていやしなかった。
声だから届かないのか?
気持ちだから届かないのか?
だとしたら、オレが届ける方法は他に一つしかない。
――音だ。
叶亜が好きだって言ったオレのギターで叫ぶしかねえだろ。
弦を爪弾いて、空気を震わせるのに音が全然耳に入ってこない。それでも、気持ちをぶつけるようにギターを弾き続けた。そんなオレを見て有貴がどんな顔をしていたのかなんて知らないし、腹が立つから知りたくもなかったけど。
最初から諦めるつもりなら、こんなにもがいたりしない。
最初から受け入れるつもりなら、こんなに苛立ったりもしない。
だって、オレは最初から。

他の誰でもない叶亜と、一緒に音楽をしたいと思ってたんだ。

* * *

期待しないフリをして、心のどこかでは信じてたんだ。オレの音で、叶亜の気持ちを変えられるって。
「ふざけんじゃねえ!!」
気付いたときには、オレの拳はこいつの頬を殴った後だった。受け身も取らないままの至近距離からの一撃に、体は吹き飛んで派手に壁にぶつかった。うつむいたこいつの表情は見えない。カッとなって、そのまま馬乗りになって襟首をつかんで揺さぶる。
そういえば、こんな風に本気で喧嘩をするのは初めてだ。いつだって気持ちを全部笑顔の裏に隠して、本当に欲しいものだってオレに譲って。そうやってお前はぶつかったり、喧嘩をしたり、向き合う事から逃げてたよな。
だけど、もう逃がさない。逃げられるなら逃げてみろよ。

――叶亜、やっとオレら本気で喧嘩できたな。


Side Toa

「どうして、どうしてお前はいつまでもバカなんだよ!!!」
「……」
目の前には、いっぱいいっぱいに涙をためた亜蘭の顔があった。亜蘭が叫んだ言葉は、前に僕に言ったものと同じ。
あの言葉を僕にぶつけた日から、亜蘭は僕に笑いかけなくなったのだ。

* * *

僕に結婚の話が出た時。
いくつか貰った釣書の中から一人選び、何かあって破談になった時のためにもう一人選んだ。
条件は、二つ。
鈴音家に利益をもたらす事と、人の気持ちを疑わない子である事。
前者はともかく、後者は会ってみないと分からない。だけど、会って数時間会話をすれば見極められる自信があるし、もし当てはまらなかった場合は、何か理由をつけて破談にすれば良い。結婚をすれば僕はその子に愛している、と嘘を吐き続ける事になる。幸せな家庭を築けるなんて思ってはいないけど、それでも僕の家の都合に合わせてむなしい結婚をするのなら、せめて幸せな家庭を築けていると思わせてあげたい。吐き続けた嘘がいつか本当になるかもしれない。だけど……仕事、仕事で忙しくなる毎日の中でその可能性は極めて低い。だからこそ、譲れない条件だった。
差し出した釣書を祖父に見せると、ぱらぱらとめくった後、満足そうに笑っていた。
「良い目利きだ」
そんな言葉に嫌気がさす。それでも、僕は思ってもいないことを口にする。
「そう言ってもらえて光栄です」
「すぐに見合いの日取りを手配しよう。お前の気持ちが変わらないうちにな」
「まだ学校に通う身ですが……」
「そこは気にするところじゃない。今から地ならしをしておくに越した事はない」
祖父の話を聞きながら適当に相槌を打っていると、部屋の扉が開いた。
「失礼します」
顔を覗かせたのは亜蘭だった。
いつもは滅多に祖父の部屋には入ろうとしないのに、それでも入ってくるのだからよっぽどの用事があるんだろう。
「亜蘭? どうかした?」
「叶亜! ここにいた……」
嬉しそうに部屋に入って来たのに、僕の手元に広げられた釣書を見た瞬間、亜蘭の表情は一変した。何してんの、という問いに答える前に「お前には関係ない」と祖父が口を開いて亜蘭の背中を押し、部屋の外に押し出す。
「おい、関係ないってそれ……!」
尚も問いただすように食いつく亜蘭を無視して祖父は扉を閉めた。
「亜蘭!」
扉が閉まる瞬間の、亜蘭の傷ついた顔が僕の目に焼き付いた。

祖父との話が終わり、部屋を出るとそこには亜蘭がいた。話が終わるのをずっと待っていたんだろう。部屋から閉め出された時の傷ついた表情は、今や強がりの仮面で隠されていた。
「話がある」
「どうしたの?」
「部屋に来い」
「うん、分かった」
亜蘭に連れられて、部屋に入る。何となくベッドに腰かけて、亜蘭に問いかけた。
「何か嬉しいことでもあったの?」
「嬉しいことって……」
亜蘭は一瞬驚いた顔をしたかと思うと、すぐにまた強がりの仮面で顔を覆って、問い詰めてきた。
「さっきのあれ、なんだよ」
「あれ? ああ、大したことないから大丈夫。亜蘭が気にする程のことでもないよ」
「嘘つくな!」
うまくごまかそうとしたけれど、亜蘭はもうどこかから話を聞いたらしい。部屋中に、彼の怒声が響いた。
「結婚相手決めてるって、あいつらが噂してたぞ」
あいつら、とは使用人のことだろう。屋敷の中で過ごす彼女たちの数少ない楽しみがお喋りだ。屋敷内で起きた出来事なら、すぐに彼女たちの耳に届く。
亜蘭はどんな人とも分け隔てなく接するから、屋敷の噂話を彼女たちから聞き出すことはきっと容易なことだったのだろう。
「……」
もう何を言っても誤魔化せないだろうか。いや、亜蘭がもう知ってしまっているのなら何をどう話せばいい? 言葉に詰まっていると、亜蘭は何故だか泣きそうな顔をしていた。
「何でいつまでもそうなんだよ。結婚って大事なことじゃないのか?」
「……えっと」
「それを家の為に決めるってどこまで馬鹿なんだよ」
明らかに僕の為に怒ってくれているのが分かって、いけないとは分かっていても少し嬉しくなってしまった。
「でも、家の為には大事なことだよ。……昔ながらの風習って笑っちゃうけど。それでも、結婚する意味があると思うんだ」
「……」
「相手の子には利用するようで申し訳ないけど……。でも、亜蘭は大丈夫だからね。こんなくだらない風習、僕で終わりにできるように頑張るから」
だから、亜蘭にはそんな思いはさせない、というつもりで言ったのに。僕の言葉を聞いた亜蘭の表情は一気に曇っていった。そして、ぽつりぽつりと言葉を吐きだしていく。
「なあ、どうしてオレを頼らないんだよ? オレだって一応、鈴音の人間だろ」
「亜蘭?」
「叶亜が全部呑めば丸く収まるとでも思ってんのか? 家を大きくする、存続させることがくだらないとは言わねえ。ただ結婚なんて手段使わなくても他にもいろいろあるだろ。……叶亜が社長やって、オレが補佐? みたいな。そんな感じでやればできなくもないんじゃないかって」
夢みたいな未来の話が、亜蘭の口から紡がれる。
「オレはまだガキで頼りないかもしれねえ。でもそのために勉強しようと思ってる。せめて一生、死ぬまで一緒にいるヤツくらいは自分で決めろよ」
亜蘭は真っ直ぐで、とても優しい。
会社を経営していくと、どうしても正攻法だけではうまくいかない事も出てきてしまう。その時には、手を汚す事も必要になってくる。
……僕は、次期社長候補として祖父や両親たちの仕事に付き添う中で、その瞬間を近くで見て来た。当然、人に妬まれることもあるし、恨みを買うことだってある。そして何より、誰かを悲しませることにもなる。
それを見ない振りするなんて、きっと亜蘭にはできない。全部真っ直ぐにぶつかっていって、受け止めてしまう。ぶつかるだけならいい、ぶつかって壊れてしまうことだってある。そんなことで、その優しくてあたたかい心を潰して欲しくない。
「……ごめんね。ありがとう、亜蘭」
結局僕が取った行動は、いつものように笑って、痛いところを触られないように話題を逸らすことだった。
「ね、亜蘭。そういえば……」
「またそうやって逃げんだな。くだらねえ」
「亜蘭……」
「もういい。一生そうやってろよ。出て行け!」
これでおしまいとばかりに、僕を強引にベッドから立ち上がらせて背中を押す。
「どうしてお前はいつまでもバカなんだよ。……オレが、」
その言葉の続きは、ドアが閉まる音に重なって消えた。
バタンとドアが閉まる音は、まるで亜蘭のこころのドアが閉まる音のようにも聞こえて、さっき祖父に閉め出された時の亜蘭もこんな気持ちだったのかなと思ったら、無性に泣きたくなった。
大丈夫、そう自分の胸に言い聞かせる。
次の日にはまた何もなかったかのように話しかけて、そして笑って。
いつもの日常に戻るんだ。
そう、思っていたのに……亜蘭は僕に笑いかけることはおろか、話しかけてくることもなくなってしまった。

僕は、ずっと後悔していたんだ。あの時、どうしてやり過ごそうとしてしまったのか。どうして亜蘭と向き合わなかったのか。
僕とふたりで会社を支えるために頑張るって言ってくれたこと。それは、家や僕に対して初めて聞く、亜蘭の本当の気持ちだったのに。

* * *

「オレが……いるだろ」
「……」
その言葉を聞いて、胸がずきりと痛んだ。あの時の言葉の続きを、やっと聞けたような気がした。
「なんで全部自分一人で抱え込んで、好きなこともやりたいことも我慢してんだよ。家の為、家の為って。ふざけんなよ。オレのギター聴いてもなんとも思わなかったのかよ! オレのギターは、こいつらの音楽はお前のこころに響きもしないのかよ……。だせぇ。まじでだせぇ」
絞り出すような声が聞こえて、襟元で握り占めた亜蘭のこぶしの上に、ぽたぽたと水滴が落ちた。涙だ。
(また僕は、同じことを)
スタブルを続けて亜蘭と少しずつ前みたいに接することが出来るようになっていった。でもそれは、僕が社会人になるまでのわずかな時間だけ。その後は、どんなに恨まれても、嫌われても構わないと思ってた。だって、そう決めた。
……はずだったのに。
「ダサくないよ! 凄い曲だった。……それに、僕だって嫌だよ。本当は、亜蘭のギターをずっと聴いてたいし、有貴や依空とも音楽を続けたい。新の歌声を聴いてたい」
駄目だ、心の奥底にしまっていたものが溢れてくる。
「この中に、僕もいたいよ! でも! でも、他に方法がないんだ」
顔を上げた亜蘭の燃えるような瞳が、僕を睨みつけていた。
「オレがいるだろ! 何のために商学部に通って好きでもない勉強してると思ってるんだよ。全部、お前と一緒に家守りながら音楽も続けるためだろうが! なんでそれを分かろうとしねえんだよ!」
亜蘭の心の叫びが僕にぶつかってくる。
「今すぐには無理だけど、追いつくから。それまで、待ってろよ。お前なら音楽やりながらでもそこんとこ上手くやれるだろ。無駄にずる賢いんだし」
ようやく殴られた頬が痛んでくる。口の中には鉄の味が広がって、ぴりぴりと痛む。
「……ずる賢いなんて、酷いな」
幼い頃みたいに顔をぐしゃぐしゃにした亜蘭がいて、僕の力になりたいと言ってくれている。
「大変だよ。好きなことも出来なくなるかも知れないよ。……汚い事もしなくちゃいけないし、嫌な事もしなくちゃいけない。それでもいいの?」
絞り出すように声を発すると、亜蘭は驚いたことに、にやりと笑っていた。
「当たり前だろ。全部受け止めてやるから、頼れよ。んで、音楽するって言え」
「……」
仮にここで僕が頷いて、亜蘭が会社を手伝ってくれたって、現実的にはそれで全部が解決するわけじゃない。僕だけならまだしも、亜蘭を巻き込んで、更に別の人も巻き込むことになってしまう。
だから、まだ決意はできなくて。
僕は亜蘭の言葉には答えることが出来なかった――。


Side Isora

「はいはい、そこまでにしておこうな」
これ以上状況は動かないと見て、叶亜と亜蘭の間に割って入る。有貴に視線を投げれば、有貴はこくりと頷いて亜蘭を叶亜から引き離した。俺は戸惑っている叶亜に手を貸して立ち上がらせる。
「やめだやめだ」
叶亜は訳が分からない、と言った表情で俺を見ていた。
「まあいろいろと俺なりに考えてはみたんだよ。亜蘭の傍にいたいって気持ちとか罪悪感に付け込んで、無理矢理付き合わせるとかな。……でもやめた」
みんなの予想を外したであろう言葉に、スタジオが静まりかえった。
「そんな気持ちでスタブルにいて欲しくない。最初は違ったんだけどな」
「……」
「なんでも利用しようって決めてたけど。Seekerたちに出会ってさ、あいつら純粋に俺たちを好きでいてくれて、応援してくれてる。そのためにも、って思ってたけど気が変わった」
亜蘭は訝し気な顔をしながらも、俺の様子をじっと見つめていた。
「亜蘭みたいに助けたいって、一緒に頑張りたいって言ってくれる奴がいるのに、自分で全部解決させようとするやつはバカだ。これだけ言っても、まだバカなままなら、ここまでだ」
その言葉に叶亜は視線を落とした。
俺は、手放さないって決めたんだ。掴んで離してやるもんかって。そのためならどんな手段も使うと決めている。
だから、これが、俺が使える最後の手段だ。
策を巡らせ、罪悪感に付け込んで。未練が残るように音楽まで用意して、それでも駄目なら、俺にはもうこの手しかない。
でも、確証がないものに賭けたくはなかった。ギャンブルは勝てると確信しない限りやらない主義だ。そんな俺が、今賭けに出ている。
誰が、何が、俺をそうさせたのか答えは出なかったし、それが良いことなのか悪いことなのかも分からなかったけれど。ただその行動に出たことに、俺も変わるもんだ、と自嘲した。
「だけどこれだけは言っておく。俺たちが上に行くためにはお前の力が必要だ。だから、これからも一緒に音楽を続けてほしいと思ってる。俺たちの……俺の為にその才能を使えって。だから……」
言いかけて、口をつぐむ。最後にあいつに言うべき言葉を探して、そして見つける。
「4月15日。今聴かせた、『さよならエチュード』のレコーディング日だ。そこまでは待ってやるから、亜蘭の気持ちに対する答えを見つけてこい」
想いを言葉にしていると、自分の身体が熱くなっていくのが分かる。
「その答えがさっき俺たちに聞かせたものと変わらないなら、スタジオには来なくていい。時間は、15時。それを過ぎたら、1分1秒たりとも待たない。分かったか?」
いつも俺は、冷めていると思っていたけれど、俺の中にはこんなにも熱いものがあったのか、なんて他人事のように感じていた。そしてそれを聞いていた叶亜は、やがてゆっくりと笑った。
「ありがとう、依空。分かった」
「……ああ」
結局叶亜が何を選択したのかは、その笑顔からでは分からなかった。
けれど、これ以上あいつに伝えるべき言葉なんて一つも見つからない。緊張感を解くように、不意に先程まで黙って見ていた有貴が声を上げた。
「これで、少しは俺も悪あがきをした意味があったかな」
亜蘭はその言葉に、ふいと顔を背ける。有貴の言葉に、何か思うところがあったのかも知れない。
「みんなには言ってなかったと思うけど、あの歌詞のサビの部分は、依空が酔った時に言ってた言葉を拾ってみたんだ」
有貴はくすくすと笑いながら口を開く。
「は? 何言ってんだ?」
「覚えてない? あの時は文字通り酒に溺れていたからね」
「あー……」
心当たりはなくはない。二人で飲んでいたはずが、気づいたら有貴の家で目覚めて、「おはよう」とあたたかいスープを出された。
あの時は、事の顛末だけ聞いて満足して、悪い悪いなんて言いながら有貴が作ったスープで腹を満たして帰った。
「へーえ? ……あの歌詞、な。そう言うことだったのかよ」
「いそら、とあのこと好き」
なんて言葉が亜蘭や新から聞こえてくる。
「違う! 違うから! 言ってない! てか有貴はほんと覚えてろよ」
否定すればするほど、有貴と新にからかわれる始末。叶亜ですら、にやにやしている。
「やっぱり依空、僕がいないと寂しいんだね」
「……」
一体何を言い出すんだとは思ったが、ここまでくると否定するのも面倒になる。
「はいはい、そう言うことで」
そう言い捨てて、口をつぐんだ。
「依空……」
「なんだよ」
さっきまでにやにやしていたのが嘘のように真剣な表情で叶亜が俺を見た。
「僕にとって“家の為”にって言葉は、きっと免罪符みたいなものだったんだ。何かをしない理由も、何かが出来ない理由も、本当は僕の気持ち一つだったのに、それを持っているから使ってしまっていた。でも……それじゃあ、いけないよね。ただ逃げてるだけだよね。だけど、もう引き返せないところまで来てしまったのも本当の事だから。レコーディングまで時間をください。僕も悪あがきをしてみたくなったんだ。誰かさんに影響されて」
叶亜は横目で有貴を見ると、目を細めて笑った。
それは、俺がこいつと出会ってから見た初めて心から笑った笑顔だったのかもしれない。

賭けの結果は、まだ分からない。だけど――。

俺の目の前を通り過ぎて、叶亜は有貴の隣にいる亜蘭のところに歩いていく。
「亜蘭、ありがとう。さっきの返事、前向きに考えてみるから……その時は、よろしくね」
亜蘭は一瞬、驚いた表情を見せてからそっぽを向いた。どこか耳元が赤くなっていたのは、きっと気のせいではないだろう。
「やっと分かったのかよ。この分からず屋のバカシカ」
なんて呟いていた。
そんなふたりを新がいつものように「よしよし」と撫でていた。
いつもの景色、いつものメンバー。これが俺たちの当たり前だ。
だけど、当たり前は当たり前なんかじゃなくて。きっと掛け替えのない瞬間の積み重ねなんだろう。奇跡みたいな瞬間を重ね続けて、俺たちは夢へと近づく。

この賭けは俺が勝てそうだと――心配して待っているあいつらに報告をして、安心させてやりたいと思った。


Side Arata

あらんととあが言いたいことをちゃんと伝えられて、きっとこれなら大丈夫。それを見てるいそらとありたかも、本当はどうなるか分からなくてはらはらしてたけど……でも、安心しているのが分かる。
ここまで来るのは長かったけど……でも、こうしてみんなが笑えて良かったって思うのに、何かが少し変。みんなを見ていて……気付いた。
(……ありたか?)
あらんととあを見て安心してるのに、ありたかの表情は暗い。大丈夫、かな?
俺がありたかをじっと見つめていたからか、視線に気付く。ありたかは何かを取り繕うよう微笑みを浮かべて、俺の隣にきた。
「新」
「んー」
何かが変。そう思うのに、ありたかの顔を見たら聞かないでって言っているように思えて。
俺は目を伏せて、開きかけた口を閉じた。